羽幌の砂金

http://www5.ocn.ne.jp/~project7/HaboroCoalmine/Haboro015.htm

鉄道線路敷設の際、軌道上に敷くバラス、砂は大部分を築別川から採取、その頃砂金採りの姿はめったに見かけなかったが、砂金採取権所有者から「砂、バラスと一緒に砂金もとっている」と、ねじこまれる。この苦情を受けた町田支配人、少しも慌てず「砂、バラスはよそに運んだのではない。線路上に残っている、砂金が採りたければ線路上でどうぞ・・・」と、その苦情を一蹴した。ウソかマコトか、こんなエピソードも残っている。

なんというか・・・ヴェニスの商人風の話が展開されそうな? しかし不用意にこんなことを言うと夜中に線路の砂利がごっそり無くなりそうな気が・・・歴舟川辺りでは砂金掘りに畑を削り取られて一騒動なんて話もあるしねえ。

また「栄部落の今昔」という記録の中には「明治後期に砂金が発見され、金鉱区の申請をめぐって争いが相次ぎ、河川に近い栄部落(初山別村)の八人が、出願に当たって、申請手続きに要する七十円の金策が出来ず、三上某の出資でやっと手に入れ、砂金採りに精を出す」とある。
ところが、川にこっそり砂金を盗みとりに来るよそ者がいた。そこで村人はクマ射ちの鉄砲を持ち出し、交代で監視する。まるで築別版西部劇。こんな風景が山深い築別川周辺で描かれていたなど想像もつかない。今の人なら「昔話」として、おそらく一笑に付すだろう。
鉱区権をもった者の中には、数百万円の大金を投じて砂金の大選鉱場を造った人も何人かいたが、金の粒が細かいため流失が多くどの工場も金四キログラム採取した程度で事業を打切る。当時、金一匁(四グラム)四円、白金五十銭だった、だから白金は採算割れで、誰も見向かなかった。

http://www5.ocn.ne.jp/~project7/HaboroCoalmine/Haboro012.htm

ところで、築別の開ける初めは石炭ではなかった。「石炭羽幌」に「羽幌の歩み」という座談会の記録がある。岩田源作、泉波義雄、高田政雄、松永新作、長谷川恒太、福本清太郎、渡辺忠一の七氏。そのまま転載する。
泉波 いつごろなか分らぬが、砂金とりが足繁く入山していたらしい。伝えによると、築別川で砂金を発見したのは行商人。大正初めごろは、ネコ流し風景が川のあちこいで見られたという。
高田 私の親はここで農業をやっていた。そこで大正十一年に生れたが、実際に砂金をとったことがある。この辺の百姓も農耕のあい間に砂金とりをやっていた。旭川の三浦屋旅館の主人が鉱区を設定していた。