「立川町史資料 第一号 瀬場村文書」


「立川町史資料 第一号 瀬場村文書」

 月山の東斜面に端を発する本沢は、北流して赤沢・濁沢等大小無数の渓流を集め、やや西流して玉川と合流し、立谷沢川となる。
 その合流地点の左岸に、瀬場の集落があり、上瀬場と下瀬場の二集落に分れている。
 越後国瀬場・中継で金掘りをしていた人びとが、中継から来たものは下瀬場へ、瀬場から来たものは上瀬場へ、それぞれ移り住んで村立をしたと伝えられている。その年代は、中世末期とも、近世初期とも言われているがはっきり断定することはできない。

この資料を読む限りは瀬場(立谷沢川)の金掘りのルーツは月山周辺の他村ではなく越後国瀬場・中継集落ということになるだろう。で、この文章の元になった文書は・・・この資料中には無いような?読み落としてる?
その他には黒川衆 阿部衆なんて気になる名前も出てくるなあ・・・気になるので後でちゃんと読んでみよう。

その他に読みとれるのは・・・
立谷沢川での砂金掘りは年度によって違いはあるが概ね6月頭*1から11月上旬*2(採取量が安定していた明治30年代のはなし。採取量が減って来る明治40年以降は採取期間が短くなっているようだ。)
・明治41-42年を境に急激に採取高が減少(300g台→100g台・それ以下に)し、実質明治の終わりには立谷沢川の(瀬場村の?)砂金掘りは終焉したと言ってよさそうだ。
・砂金買取額は1円/g(明治33年〜大正3年まで変化なし。平均品位89%)
・鉱業権は昭和27年頃まで残っていたらしい。

昔の鉱区割り当てをした図なども結構あるのだが、読むのは結構時間がかかりそうだな〜

*1:雪解け増水が一段落するのだろうか?

*2:降雪の始まり?