歴船川の砂金史(明治以降)

http://rekitan.namara-hokkaido.net/entry.php?id=261

歴舟川は明治になって、一大砂金産業地区となります。このことについては、広島で生まれた渡辺徹三という人物が深く関わります。彼は明治13年、東京府庁の書記となり、明治18年に札幌県の郡書記となって北海道にやってきます。その後、退職してから海運や商業を手広く営み、明治27年に広尾郡に移住しました。渡辺は広尾で事業を展開するかたわら、歴舟川の砂金採取の有望性に着目します。そして、いち早くその鉱区を取得していきました。彼は、同郷の尾田又五郎、重太郎、房吉の3兄弟に歴舟川に砂金採掘を指示しました。その結果は、とても良好で将来的にも有望との知らせを受けます。この報告に渡辺は本格的に砂金採取の仕事に取り掛かります。
このころの砂金採取方法は一定であったようです。まず基点となる事務所を設け、第1現場、第2現場といわれる場所を定めます。次にその場所に拝み小屋と呼ばれる小屋を作ります。この小屋は丸太や笹竹で骨組みが作られ、笹や雑草、フキなどで屋根や壁を作ったと伝わります。この小屋には生活必需品や食料も用意されていました。人々はそこに何日も暮らし、砂金を採取していきました。当時の金の取り方は、流し掘りと呼ばれる方法でした。まず、ネコ板と呼ばれる板を川の中に沈めます。次に川の中の砂金を含む砂礫を掻き出し、ネコ板の上に乗せます。そのようにして川の流れで不用な砂礫を取り除きます。昼食時に1回、夕食終了時に2回目の採金をする方法でした。渡辺たちが行った砂金採取は良好でした。そのため明治27年から次々と採取人が歴船川に集まってきました。その中には、自称・山師のような事情のある人も多かったといいます。彼らの求めるものは、まさに一攫千金の夢でした。
明治32年、歴舟川の砂金採取はピークを迎えます。歴舟川周辺の尾田という地域は、大がかりな経営を行うものや、農閑期に掘り子として入ってきたものたちで1000人を超えるほどになりました。尾田市街には繁華街が生まれるほどになりました。このような盛況から、歴舟川は、いつしか宝川と呼ばれるほどになっていきます。人々の夢を実現する川と認識されるようになっていきました。このころの採取人の生活は豪華なものであったようです。砂金採取が終わって山から下りた人々の中には、1週間も酒を飲み遊んでいくものもいたといいます。また、代金は砂金で払うこともありました。当時大きなものでは、1粒で5gという砂金もありました。最盛期には1日約100g、それが1週間も続くこともあったといいます。掘師の中には動力を使って大量に手広く採取する者もおり、相当の利益をあげたものもいました。砂金採取の最盛期は、大正にかけてまでした。
最後の専門砂金採取者といわれる辻秀雄も大樹町出身です。彼は23歳で砂金採取を行っていました。特に日支事変が起きたころから砂白金採取に転向して、天塩、士別、妹背牛といった場所で実績を上げていきます。こういった人々が活躍する中、川の埋蔵金にかげりが見え始めていくことになります。確実に砂金採取の量は減っていきました。それに伴って採取人も減少していき、戦前には30数名を残すだけになっています。戦後になると採取人は数人だけとなり、日本最後の職業砂金掘り師である故辻氏が1971年に廃業することで、専門の砂金採取者はいなくなってしまいます。やがて歴舟川の砂金採取は、一部の人だけによるものとなりました。現在では1日に100gもとれるということはありません。しかし、今でも砂金はとることができます。
多くの人々が一攫千金の夢を見て、北海道にやってきました。彼らから見れば、北海道は宝の山でした。しかし、今は歴舟川は清流の川となって、その当時の商業優先の時代を少しも垣間見せてはくれません。