「恋屋の日記」(小菅徹也)

先週佐渡からの帰りのフェリー内で見つけて購入した「恋屋の日記」(小菅徹也)。 SNS内のブログに書かれたものを書籍としたもので1〜3まで発売されているようだが、金山関連の記述で興味深いのは「1」
特にp.79〜p.90「直江兼続時代の相川金銀山(2)」が・・・・

元和3年(1617)頃に硫黄を使った金銀吹き分けの技術が導入されるまでは、佐渡では金が50%以上の場合黄金色をしているので金とし、銀が50%以上の場合は白銀色を呈しているので銀として扱ったと聞く。

ここは、 http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20110623 で、書いた話だな。
んー、でも硫黄を使った金銀吹き分けは主に輝銀鉱(+少量の自然金)とした精鉱に適用されるんじゃなかったかなあ? うーん、そうか、“銀”の方に焦点を当てた話として読めば良いのかな?
それと、だ、これ以前の運上・・・例えば「伏見城蔵納目録」(慶長三年)に記載されている数値などは銀などがどれだけ含まれていたとしても“金”として扱われていたのかなあ?という疑問も湧いてくる。*1
その後に焼金法の話が続く。

佐渡の銀は量も質も最高であるが、佐渡の金は量が圧倒的でも質がもう一つなぁ」と言うことになった。これを解決する為に関原宗清と言う有力山主が、戦国最末期にもたらした最新技術が、佐渡奉行所跡の地下から偶然的な発掘で発見された焼金の長窯である。

えーと、確か、佐渡奉行所のあった場所が元は「関原宗清」の屋敷であったということ・・・だったかな? で、そこから見つかった焼金に用いられたであろう長窯と関原宗清の活躍した年代を勘案すると「戦国最末期」に佐渡で焼金法が用いられたであろう。ということらしく、文献に焼金法が行われた記述は無いのだと思うが・・・関原宗清に関して調べると、焼金法に関してはもう少し何か分かるかもしれないねえ。

*1:佐渡からの運上約799枚、金の比率が60%だとしたら実質の金の運上は480枚ということになってしまう・・・のか?伏見城蔵納目録も元の文章を読んだことがないからこの辺は大きな勘違いをしているのかもしれないが・・・