読んでみたけど

「古代の蝦夷と城柵」(熊谷公男)
城柵の外の軍事的緊張状態とかまでは分からないんだな〜この本では(他の本でも分からないかもしれないけど)。
まあ、収穫はあって、“西暦715年に相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国を富民一〇〇〇戸を陸奥に移配。”とあって、この陸奥の具体的な場所が黒川以北十郡(牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻・賀美・黒川)なのだそうだ。これ以前は関東などからの移民は無いようだから後の産金地である牡鹿や小田に大和王権の力が及ぶのは概ねその前後(西暦715年)以降だろう。
さらに産金技術を持った渡来人系の人間が入ってくるのはもう少し後だろうし・・・*1
だから、701年の陸奥の金の冶金に関する件はやっぱり八溝山周辺でのことじゃあないのかな?っと、言いたいけど、まだまだ調べが足りないねえ。

*1:西暦738年百済王敬福 陸奥介に任ぜられる