嘉念坊善俊は実在した

嘉念坊善俊らの実在が疑われるなどと書いておきながら・・・

広報しらかわ 第577号 http://shirakawa-go.org/uploads/kouhou201908.pdf

書状にはまず「白川善俊跡」という記述がでてきますが、
これは飛騨に真宗を開いた白川善俊(嘉念坊善俊)の門徒達を意味しています。書状に年代の記載はありませんが、内容や末尾の花押の筆跡から研究者の間では、1488〜98年に書かれたものと推定されています。

今までの通説では善俊は江戸後期に書かれた「岷江記」から弘安5年(1282年)に死去したとされてきましたが、本書状にある「跡」という書き方は実際に書かれた当時の慣例で死後7〜8年を指すため、善俊は1480年
代初頭まで、蓮如上人と同じ時代を生きていた人物であることが分かり、通説より200年後に生きた人物であることがわかってきました。
 この書状の内容を要約しますと蓮如上人が北陸の一向宗を取りまとめ
ている越前寺院の四男蓮誓に対し、「白川善俊門徒と越前・加賀の門徒
寺院が白川郷地頭内ケ島氏を討伐しようとしている。これを制止せよ」
という内容のもので、蓮如にとっては一向宗が内ケ島氏を討ち取れば一
向宗の門主である自分が幕府の討伐対象になりかねないという危機感か
らこの書状を送ったと考えられています。 

 実在はしたけど時代が200年ほど下る? うーん、他の人物との関係はどう変わってくるのかねえ?

しかし、蓮如は照蓮寺門徒他と内ヶ島氏の戦いを止めようとしているけど、

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1475年 文明(ぶんめい)7年 飯島正連寺と内ヶ嶋氏の戦い

 

1487年~長享(ちょうきょう)年間 「本願寺蓮如(れんにょ)上人が白川郷に入る」『新編白川村史 下巻』

 

1487年 長享(ちょうきょう)元年「嘉念坊明心生ル」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収

 

1488年 「長享(ちょうきょう)2年 内ヶ島将監為(ため)氏(うじ)正蓮寺ヲ責テ戦フ 七月再ヒ寄来リ正蓮寺ヲ焼払フ 八月十八日明教ヲ馬狩ノ横谷ニテ殺ス 幼子明心ハ二歳執事市村太郎左エ門守護シ 母公ト共親里越前椎ノ里ニ走ル 次男明賢ハ此時(このとき)胎内ニアリ 三嶋太郎将監父子三人美濃ニ遁レ赴ク 三嶋正顕ハ内ヶ嶋ノ嫡上野介雅氏ノ家臣トナル 延徳二年正顕嫡子正総(マサフサ)出生」『荘川村史下巻』23頁に「白川年代記益戸本」所収                         

 

1488年 長享(ちょうきょう)2年 本願寺内島氏との間に和議が調った?

 

 戦い自体は止められなかったみたいだなあ。