83両の価値と黄金の入手性

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さて、照蓮寺が献上したという天正8年(1580年)頃の黄金80両の価値とはどんなものだったのか?

この石山本願寺に献上された黄金83両というのは○○一両小判83枚ではなくて、砂金かそれを融かして塊状にしたものだろう。重量単位としての両は・・・山梨で湯之奥金山博物館に出入りしているとついつい1両=15gで計算しそうになるが、

ja.wikipedia.org

 金一両は元来一両(大宝律令では小両、延喜式以降は10匁)の質量の砂金という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり鎌倉時代には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。文明16年(1484年)、室町幕府により京目一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、安土桃山時代すなわち元亀天正年間には、京目一両は4匁4 (約16.4グラム)と変更され、京目以外の基準は田舎目と呼ばれた[15]

 ここでは京目の1両=16.4gが正しいのだろう。すると83両は16.4×83=1361.2g最近の金価格からすれば800万円ほどだろうか(おっと、純金じゃないから目減りがあるな)。

これだけの黄金を献上できるというのはやはり当時の飛騨・白川郷周辺が産金地であったからで、これが例えば隣国越前では、

「信長期の金銀使用について」(高木久史)

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2004bulletin/2004fpakiyou-takagi.pdf 

本論で見てきた事例と比較すべく、越前における状況を記す史料を見てみよう。天正1年(1573)、信長は朝倉義景を滅ぼし越前を占領した。その際に越前国内の武士・寺庵から金を徴収したという記録がある。


北庄土佐守館ニ、三人衆ト号シテ、木下助左衛門尉・明智十兵衛尉・津田九郎次郎ト云者ヲ置テ、国中武士寺庵ノ知行百石ニ、黄金八両宛懸テゾ被取ケル。八両ト雖ドモ、十両ニ余リテ懸ル間、黄金所持ノ人ハ稀ナルガ故ニ、或ハ家内雑具・家ヲ売リ、或ハ絹布・太刀・刀ヲ立物ニ遣シ、東西ニ馳走シテ、息ヲスベキ様モゾ無カリケル、(「朝倉始末記」越前国江州両国守護代之事)


越前国内の武士や寺庵の本領を安堵するに際し、知行高100石につき黄金8両を徴収した。しかしながら「黄金所持ノ人ハ稀」であったため、家財道具や家等を売却するなどしてこれを調達した、ということがこの史料からわかる。
注目すべきは、支払手段が金に限定されていたが、当時越前において金を保有している主体が稀であったがため、金の調達のため武士や寺庵が奔走した、という部分である。この部分は、天正1年の段階で、越前の武士・寺庵レベルにおいて価値蓄蔵手段として一般化していない状況、また金
自体があまり流通していない状況を示唆する。
本稿で先に挙げた事例と単純に比較すれば、天正1年の越前においては金の流通があまりなく、天正7年ごろの京都と近郊においては価値蓄蔵手段等として一程度の使用があった、ということになる。この差異が時期差、地域差、それとも別の要素の差異によるものなのかは、ここで挙げた資
料だけでは判断できない。今後実証例の蓄積が必要である。 

 金銭的な価値もさることながら、金を入手すること自体が困難だったことが窺える。数年差があるとは言え、黄金の入手性自体はそれほど変わらなかっただろう。

こういったことからも照蓮寺自体または寺領内に産金技術者がいた可能性が高いことが考えられるのではないだろうか?