初日に魚津市図書館へ行ったので文献探し、その中に・・・
『下新川郡史稿』
此地を金山谷と稱するは天正中前田家所領に歸せし以來、角川河口に滯積せる砂金よりして、その水源に鑛脈のあるを察知し、藩事業として採掘に従事してよりこの溪間一帶を金山谷と汎稱し
と角川河口の浜砂金をきっかけに上流の金山開発が始まったことが記されている。もっとも、角川上流に存在する松倉・虎谷・河原波の三金山の内、松倉金山の開発は応永年間(砂金採取かなあ?)と云われているので、時代的な整合性とか考えないといけない部分はあるけど・・・まあ、砂金採取時代や山金山開発時代とすれば辻褄は合わせられるかな?
この角川、河川名の角川と共に地名としての角川が存在する。角川河口部の新角川には現在、先日書いた桃原寺
が所在する。つまり・・・というかもしかしたら、桃原寺は医王山の金山→虎谷の金山→角川河口の浜砂金採掘に関わってきた、もしくは金掘り達と共に産金地を移動してきた可能性があるのは面白い話だ。