股の沢金山

体調が悪くて調査に参加できなかった秩父の股の沢金山。こんなところだったのか。

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ここでは知り合いが昭和四十年の初めまで金を採っていたという。場所は十文字峠登山道のほど近く、十文字小屋まであと四十分くらいのところ。股の沢支流が登山道と交わる場所にあった。そこには昔使っていた水車や精錬所跡がまだ残っていた。坑道は登山道の上の方にあった。       
 最後の金掘り職人だったのは川又の佐藤善蔵さんという人だった。佐藤善蔵さんは両神マンガン掘りをやっていた人で、その技術と知識を生かして金の採掘に応用していた。
 清川さんという人が鉱山の権利を持っていて、その清川さんの許可を得て、採掘をしていた。夏の間、一ヶ月間くらいテントに泊まり込んでやっていた。

 

扁額の『千軒地蔵尊由来』にはこう書いてある。                
『戦国時代、甲斐武田の家臣が荒川上流股の沢に金鉱を発見。鉱山の発展と従事者の  
 安全、周辺住民の繁栄を祈願し、千軒地蔵尊と御命名。同地の普門寺傍に安置した  
といわれる。山の閉山後故あって御尊体はこの地に遷座され。栃本集落の外れ、杉林の中に静かに祀られている千軒地蔵尊の祠。    その昔、股の沢金山に祀られていたというお地蔵様。

 登山道沿いに水車や製錬所の跡があるが、明治以降のもののようだ。政雄さんは石臼を見たこともある。鉱石を砕くために使っていたものだそうだ。            
 金掘り職人だった善蔵さんは『ねこ流し』という方法で金を採っていた。幅三十センチ、深さ二十センチくらいの木の樋で、長さは二メートルくらいのもの。これを何台もつないで、全長三十メートルくらいの樋にした。ここに沢から引いた水を流し、採掘した鉱石を粉に砕いて一緒に流す。一般的なねこ流しは樋の中に布やムシロを敷くのだが、善蔵さんは何も敷いていなかった。                           
 樋の出口に鹿の腹皮を揉んで作ったもみ皮をつり下げておく。金は比重が重いので、流れ落ちる時に水と一緒に流れずに、この鹿皮に付着する。どんどん鉱石を粉にして流して、金だけを捕獲する方法だ。もちろん大量の金が採れるはずはなく、大きなカマス一袋(七十キロから八十キロ)の鉱石を砕いて粉にして流し、やっと耳かき一杯の金が採れるか採れないかというくらいだったという。なかりの重労働だ。

へ~、「鹿の腹皮を揉んで作ったもみ皮をつり下げておく」ねえ~ どんな感じだったのだろう?

https://hgis.pref.miyazaki.lg.jp/hinata/hinata.html#zwsAmq6KgEJf