大泉荘

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応永14年の長講堂領目録によれば、大泉荘の本家への年貢はもともと「砂金百両、御馬二疋」であったが、「近来」は「国絹二百疋」であるという[2]。大石直正は、大泉荘が存在する出羽国沿岸部で金や馬が産出されるとは考えられないため、年貢の納入に奥州藤原氏の関連を指摘しているが[2]、布谷陽子は、「砂金百両、御馬二疋」は鎌倉時代中期の年貢であり、「国絹二百疋」は応永14年頃の年貢であると推測し、奥州藤原氏との関係性を否定している[7]。

大泉荘の範囲が現在の鶴岡市赤川流域一帯ということで詳しく分からないけど、立谷沢川とは全く関係ない地域なのかなあ?