庄内・立谷沢の瀬場・・・瀬場の名前の由来はさておき、酒井忠勝の庄内転封(1622)以前にも信濃と立谷沢には繋がりがあった?
http://y-kakusho.jp/toukou/toukou36.html
兼続は、新田開発を進め、また、立岩喜兵衛(たていわきへい)・志駄(志田)義秀を金山代官として、玉川村(立谷沢)の金山を開発し、さらに庄内の産物を移出するなどして庄内の振興にも尽力しました。
http://homepage3.nifty.com/tateiwa/shyousai.html
文禄の役後上杉・直江の帰省に伴い、庄内金山奉行に補任され、鉱山開発や笛吹法をはじめとする鉱山技術についても朝鮮からの技術導入に積極的に関与したと思われる。このような喜兵衛の活躍を可能としたのは、彼が山岳系統の出身である事と、当時朝鮮出兵に伴う出費捻出に苦労した石田三成と直江兼続の密接な関係により、新しい金山の開発が急がれたとの事情による物と思われる。
この推測が正しければ、立谷沢の金山開発には朝鮮半島系の鉱山技術者が関係しているかもしれない。 宮城県牡鹿半島の古い金山にも秀吉の朝鮮出兵時に連れて来られた朝鮮半島系の鉱山技術者の話が http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20140528 いくつかあったはずだ。
立岩喜兵衛・志駄(志田)義秀、朝鮮半島の鉱山技術者と秀吉の朝鮮出兵にかかわる話は調べたら面白いことが色々と出てきそうだなあ。