「カジ屋敷遺跡・せりば遺跡調査報告書」


佐渡金銀山遺跡調査報告書12「カジ屋敷遺跡・せりば遺跡調査報告書」(新潟県佐渡市教育委員会)
佐渡金銀山”とあるが所謂相川の“佐渡金山”ではなく西三川砂金山の調査報告書。2009年度の資料なので一応この地域の報告書類としては最新版になるのでは? 一応島内及び西三川周辺の地質と島内の鉱山遺跡一覧も掲載されているので、これはこれで見ておく価値があるかな?
また、

また、その技術は伝播し、北海道渡島半島安政年間に西三川の技術者が招聘されたことが、西三川の『金子勘三郎家文書』によって明らかになっている[矢野1989]

とある。“その技術”が砂金採取技術なのか水路造りの技術なのかは[矢野1989]にあたって見なければ不明なのだけど、妄想力を最大限に働かせてみると「新編 砂金掘り物語」(脇とよ)の

この大仕掛けの採取跡は、畳六帖じきぐらいの大岩石が水路壁として積まれていることを考えると、水を利別川の上流から、山々の峯から峯へ導きこの丘の上に渦巻き形にぐるぐると丘一帯に水をまわして、砂金を採取したのだと思う

こういった場所に佐渡の技術が導入されたのかもしれない。
何か裏付けになるような資料が無いかな〜?と思って見ていると「えぞ地の砂金」*1(弥永芳子)に

さらに同六年*2、南部の銅山師石川仁吉が利別川の上流クンヌイ山で新しい産金地を発見したので、箱館奉行は上金山(三股附近)と下金山(上ハカイマップ)に金山役所を置き、佐渡から金掘りを呼んで採取した。

話としては繋がらなくは無いな。証拠も無いけど・・・





↓より少し前に佐渡(西三川)から蝦夷地に人・技術の移動があったというお話し。
http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20091022
いつの間にか砂金史研究じみたことに足を突っ込んでいるな〜 泥沼なのは目に見えているんだけど・・・

*1:妄想が広がりそうなネタを見つけたが、これはまた後日

*2:安政六年