「金子勘三郎家資料目録」(佐渡金銀山遺跡調査検討準備会)

「金子勘三郎家資料目録-佐渡国笹川十八枚村- 付 飛渡里安留記 下 (砂金山稼之事)」(佐渡金銀山遺跡調査検討準備会)

特に興味があったのがp.47-59の“蝦夷地へ渡った西三川の金掘り”。佐渡西三川の砂金掘り技術の他地域への伝播を示す資料になるのだが、

これは安政7年の2月、箱館奉行所)御役人、渡部大助(輔)が来島し、松前箱館の「砂金稼方」として、西三川砂金山の稼方巧者を雇い入れたいと申し出たことを受けて、同砂金山世話煎の「利左衛門」同かなこの「孫次郎」と「伝吉」の三人に、高崎村の「皆八」「熊次郎」の二人が雇人下遣として加わり、計五人が実際に蝦夷地へ出向いたことを示す史料である。

松前箱館とは言っても実際に砂金掘り指導にあたったのはクンヌイ砂金山(現・今金町)だったらしい。
http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20091029 の繰り返しになるけど、

「新編 砂金掘り物語」(脇とよ)の

この大仕掛けの採取跡は、畳六帖じきぐらいの大岩石が水路壁として積まれていることを考えると、水を利別川の上流から、山々の峯から峯へ導きこの丘の上に渦巻き形にぐるぐると丘一帯に水をまわして、砂金を採取したのだと思う

こういった場所に佐渡の技術が導入されたのかもしれない。

少し、繋がりがはっきりしてきたかな?

もう一つ興味深かったのは、

過ぐる安永3年(1774)の7月、相川町三町目「佐州浜川流請負、八郎兵衛」が、供人一人をつれ、羽州(山形県)最上川周辺(主として左岸地域の諸村)に出向いて10月帰国した例がある。また安永6年(1777)5月には、やはり同人が越後岩船郡高根村の「小笠原友右衛門代官所」管内に出向いていて、それぞれ名目は「砂金流見分」とある(『佐渡国略記』『佐渡年代記』)

ここからも砂金掘り技術の伝播を読みとることができると同時に、伝えられた地域をさらに調べれば、もしかしたら立谷沢の砂金掘りや寒河江川の砂金掘りに繋がって来るかも?という期待ができるなあ・・・さて、実際のところはどうなんだろう。まずは「佐渡国略記」と「佐渡年代記」を探してみよう。