飛騨の鉱山開発でよく出てくる名前に茂住宗貞や宮島平左衛門がある。そして彼らは金森入封(天正13年(1585))以降に活動したとされるが、南部屋荘兵衛はそれ以前に山師として活動した人物のようで・・・
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120315100/2120315100100030/ht011290
岡田家の先祖は、清和天皇-貞純親王-源清光-遠光-光行(南部三郎)の子孫「南部屋荘兵衛」といい、金山師であったという。仏心の篤い人で、加賀(石川県金沢)から川上郷(旧清見村)に入国し、一帯で金や鉱石を採掘していた。それから数十年後、白川郷六厩の大野平字大ナシに家を建て、金山師をしながら畑を耕し、以前から暮していた村人の手助けとなって、大野平の長者様と呼ばれるようになった。
山先(鉱山の発見)の利き腕は六厩金山の発掘を大きく伸ばした。その頃白川郷、川上郷は、郡上白鳥の天台宗長滝寺の寺領であった。南部屋荘兵衛も馬瀬郷松谷(小原・大原)に建立の末寺や、白川郷六厩島田に建立の末寺を大切に保持していた。
やがて白川郷へ嘉念坊善俊上人』が入ると、この人徳教化に帰依し、寛正年間「長滝寺」から離れて、浄土真宗の信徒になる。
時代がはっきりしない文章ではあるけど寛正年間(1460~1466)以前に六厩の鉱山開発(時代的に砂金?)で成功を収めている事がわかる。もう少し詳しい資料を確認したいが、金森時代以前の飛騨の鉱山開発に触れた文章は珍しい。
他にも出自が金沢であることや、松谷の寺を持っていることも産金とつながる話なのかもしれない。
川上荘が長滝寺の寺領だった時代は・・・
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2120315100/2120315100100030/ht011240
平安時代の中頃、飛騨国司は川上側流域の村々を長滝寺に寄進し、その地域は河川荘と呼ばれた。
坂下、三ッ谷、福寄、藤瀬、三日町、牧ヶ洞、新宮、山田、八日町、赤保木あたりまであったと考えられる。
河川荘は鎌倉、室町時代にかけて、ほとんど長滝寺の荘園として続いた。
これだと範囲が広すぎるな。別の資料を探さないと。