○赤坂委員
先ほどの小外川の加藤さんは立川町から来ているんです。立川町の立谷沢川沿いのある村から来ているんです。それはちょっと確認してなかったんですけれども、実はその立谷沢川という川の最も上流に、砂金掘り、カネ掘りをしていた村があります。上瀬場、瀬場村というんですけれども、最上流の瀬場のあたりではかつて砂金掘りをしていまして、その先祖は新潟の方から移ってきたとあったと思います。そして徳川家康の許可状を持ち伝えているという伝承も、もう少し正確には読んでいただければいいんですけれども、出てきます。そのカネ掘りの技術もいろいろ僕はお聞きしたんですが、小外川に関してはないと思います。小外川の背後の山、そのさらにもっと奥の方の山には鉱山があるんですけれども、多分それとの直接的な関係はないと思います。
ただ、この村の始まりがいつなのかということも含めて、多分こういう瀬場の砂金掘りの村とか、川沿いの川の民の村とか、いわば井上鋭夫さんが「山の民・川の民」というふうに呼んだ人たちが、中世の末期あたり、かなりこの最上川沿いの河川流域にもいろいろ動いてきて、少しずつ定着して、さまざまな歴史をつくっていったんじゃないかということぐらいは想像できるかなと思っております。
○委員
実はその付近は1966年に大きな水が出まして、あの辺一帯は非常にひどかったんです。その調査をしているときに、例えば戸沢村古口なんかは、今は最上川の舟下りなんかやっていますが、そういうところの柱に、何年というのをやっているんですが、かなり古い400〜500年という傷が入れてあるんです。恐らく日本で柱の傷を入れて洪水をあらわしているのは、そこが一番古いかなというふうに感じました。今言われたような立谷沢川の砂金とりは、運ぶときに雪解け水を使ったという話が出ております。そうすると、少し遠いところの鉱山の方も何かあるのかなと。ただ、対岸の鳥海山の方には余りないですね。
○委員
さっき赤坂さんが、井上鋭夫さんの「山の民・川の民」を引用なさったときに、その中に、中世、近世の修験者に同行して一緒に金山掘り、鉱山掘りをやった男たちがいて、やがて修験道がすたれるとその人たちが川端におりてきて川の民になったんだというけれども、山から川におりた後は、もう山はいないわけですか。
○赤坂委員
いや、そんなことはないです。大体山の民と川の民というのは一緒です。山仕事、狩猟をやったり山菜、キノコ、木の実をとる名人は、大体川漁の名人でもあるということです。
>最上流の瀬場のあたりではかつて砂金掘りをしていまして、その先祖は新潟の方から移ってきた
新潟県の「中継」「瀬場(瀬波?)」から?・・・と言うのはS藤さんから聞いた話。
>そのカネ掘りの技術もいろいろ僕はお聞きしたんですが、小外川に関してはないと思います。小外川の背後の山、そのさらにもっと奥の方の山には鉱山があるんですけれども、多分それとの直接的な関係はない
鉱山は大蔵鉱山かな? そうすると連想されるのは肘折温泉〜渡辺良作が湯治に行き父親が砂金掘りの技術を試してみたという場所だ。関係なくはないかも?もっとも渡辺良作の父親が砂金掘りの技術を習ったのは、寒河江でと考えた方が自然かな?
・・・あれ?この人は瀬場の砂金掘り技術は新潟からの移住者が持ち込んだものだと思っているわけではなく、立谷沢近辺に求めようとしているのか?
>立谷沢川の砂金とりは、運ぶときに雪解け水を使った
砂金の採取量はたかが知れているので、砂金の輸送という意味ではなく段丘堆積物を崩すことなどに雪解け水を使ったということだろう。