http://d.hatena.ne.jp/arch74324/20131204
鈴木拓也2008「天平九年以後における版図拡大の中断とその背景」『杜都古代史論叢』を読む(ミノシマさん、ありがとうございました)。東北地方における律令国家の版図拡大の過程で、天平9年(737)から天平宝字元年(757)の20年間、それが中断するのはなぜかを問うたもの。天平宝字元年に東北政策が再び活発化する理由として、吉川真司氏は陸奥産金との関係を説くが、鈴木説は、律令国家の方針は基本的に版図拡大にあり、上記の20年間は疫病(疱瘡)によりたまたま中断を余儀なくされたにすぎない、とのべる。
ふーん、そんな話があるのだな。
以前、城柵の設置時期を元に版図が北上して行く図を描いたことがあったが、それだけではこういう事柄は分からないものなあ。やはり文献を読まなくては。・・・「杜都古代史論叢」自体は“**先生還暦記念論文集”というやつなので、図書館などで取り寄せて読むしかなさそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20120301
牡鹿・小田は三陸の大産金地の南の端。西暦715年の入植がもう少し北まで進んでいたら、749年の涌谷の産金の歴史は変わったりしていただろうか?