新羅のイヤリング

http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20141116 の砂金が人工的な物だったとして、では何に使われていたものなのか・・・

「国立慶州博物館」日本語版展示図録より

国慶州地域は昔の新羅の首都で、天馬塚古墳などからは各種の金銀製の装飾品が出土している。写真の細環耳飾もその一つだが、こういった細工に球状やワイヤ状の金が用いられているのが見てとれる。
慶州で採れた人工物に見える“砂金”は、このような装飾品の一部または材料・端材等だったのではないか? ・・・というのはまだ想像の範囲を超えない話だが・・・


http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-2/tenma_zuka.htm

ところで、新羅の黄金文化について2つの疑問がある。一つは、なぜ特定の時期から金銀の装飾品が急に愛好されるようになったのか、ということである。朝鮮半島の南部に馬韓弁韓辰韓が栄えた三韓時代(紀元前後から3世紀後半頃)の遺跡からは、金銀製品が出土したことはないという。3世紀頃の朝鮮半島の国々を記した『三国志』「魏書東夷伝」にも、”金銀と錦繍を珍宝としない”と明記してある。

5世紀より前の新羅の墓から、金銀製品は出土していない。5世紀になって初めて少量が出土し始め、5世紀の半ばからその量が増加し、5世紀末から6世紀初めごろにその絶頂に達している。こうした出土状況から、5世紀の社会は支配層と一般大衆との間に明確な支配・被支配の関係が成立したと見る学者がいる。

つまり、下部構造の上に君臨する支配者達は大衆との分離を象徴するために、身体に威厳を示すアクセサリを必要とした。その必要性に応じて求められて黄金文化が定着したというわけだ。はたしてどうであろうか。支配・被支配の関係ははるか以前から成立していて、支配者層は鉄製の刀や武具などで十分威厳を示せたはずである。鉄の持つ冷たさから金銀の持つ美しさ、華やかさへ支配者層の嗜好が変わったと、単純に考えたほうが理解しやすい。

第二の疑問は、その原料をどのように入手したかという点である。慶州周辺に砂金の産地があることから、新羅の金は砂金だとされたことがある。だが、砂金で作られた製品は光沢が鮮明ではなく、色もよくない。新羅の墳墓から出土した装飾品は、金色絢爛たる製品であり、その原料は採鉱による金以外は考えられないという。ところが、現在の慶州やその周辺には金鉱は存在しない。往時に優れた金鉱山があったという話も聞かない。