松代藩と洗馬

なんだかんだで書けていなかったネタを・・・一月の金山博物館で開催されたフォーラムで松代藩と洗馬に関わる話が出ていたのだった。

元は、酒井忠勝松代藩から庄内藩に転封の際に長野県の“せば”から砂金掘りを生業とする“瀬場衆”を伴った http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20130209 ・・・という話。
しかし、
http://d.hatena.ne.jp/garimpo/20130914

平安時代(794〜1185年)は洗馬の牧、鎌倉時代(〜1334年)は洗馬の庄と呼ばれ、江戸時代(1603〜1867年)に入り、洗馬の郷といわれ、古見村、針尾村、小野沢村、西洗馬村に今の塩尻市洗馬の小曽部、岩垂、本洗馬の各村がこれに属していました。洗馬の郷ははじめ松本藩に所轄されていましたが、元和3年に高遠藩に属し、明治4年藩を廃した高遠県となりました。

有力な候補地である塩尻市朝日村の洗馬地区は旧松代藩の範囲には含まれていない。 他藩から砂金掘りの技術者を連れて転封ということはあり得るのだろうか?


ところが、S藤さんによれば『新編信濃史料叢書 第11巻』「信州川中島御知行目録」の記述から

  元和四年に酒井忠勝松代城主になるが、その前に、松平忠昌が越後高田に移されたあと、松代藩は一時幕府領となり幕府代官井上新左衛門が預かった。
  この文書は、井上新左衛門から、新領主となった酒井忠勝に渡されたもの。
  
  この中に
「一高三百四拾四石六斗八升      奈良井村」
 という記述が見られる。

松代藩にとっては、他領であったと考えていた筑摩郡にも松代藩の知行地があったこと。
・奈良井村は砂金採取調査で砂金を採取した、奈良井川に沿った洗馬の南隣の集落であったこと。

という話があり、洗馬地区は松代藩の飛び地であり、ここから砂金掘りの技術者を連れて転封した可能性はあるのではないか?というのだ。

これで、松代藩と洗馬は無関係でなさそうなことがわかった。

洗馬〜旧奈良井村付近の地図


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洗馬と旧奈良井村は20km弱離れてはいるけどね・・・