前回の記事が削除されているので再掲
http://d.hatena.ne.jp/arch74324/20160501
ただし、ひとり武四郎の伝聞のみでは、厚岸における「往昔」の金採取をただちに歴史的な事実とみなすわけにはいかない。そこで注目したいのが、1643年にこの厚岸に立ち寄ったオランダ東インド会社のフリースの記録である。
フリースらの来航の目的のひとつは、北海道周辺における銀産地の調査であった。かれらは立ち寄った厚岸でも地元のアイヌから情報を収集していたが、ある老人が着物を一、二枚くれれば(銀の)鉱山を教えてもよいというのでこれを与え、ボートに同乗させて鉱山があるという場所へ向かった。
「アッキス(厚岸)の険阻な南西を回って南へ向かっていった。……ボートは入江の中のモヨモシェルという小さな島の近くに行ったが、そこでその老住民は、勢いよく流れている清水の小さい流れの近くをさぐるように、彼ら(船員)に身振りで示したが、そこを掘っても浜辺と同じ砂以外は何もみつからなかった」。
では、老人らが向かった厚岸の「小さな島の近く」とはどこか。
厚岸付近では、先の小島と大黒島以外に島はない。フリースはこの島の名称を「モヨモシェル」と記しているが、「モシェル」は「モシリ」のことだろう。つまり、ホン・モシリ(小島)あるいはホロ・モシリ(大黒島)の地名を船員が聞き取り、それをさらにフリースに伝えた結果、「モヨ・モシェル」と記されたとみられる。
老人らが向かった「小さな島の近く」とは、小島と大黒島が間近にみえる場所、すなわち現在の幌万別付近であり、したがって武四郎が記したフクシヤタウシ付近なのであった。フリースと武四郎の記録にみえる産金地は、まったく同一の場所であった可能性がきわめて高いのである。ちなみにこの小島付近へのルートは、厚岸の「険阻な南西端を回って南へ向かっていった」とあるが、これは地形的にみても「南東端を回って」の誤りだろう。
ん〜? 結局、銀(鉱石)は得られなかったわけで、アイヌの老人に一杯食わされた・・・という可能性もあるのかなあ・・・?