フリースの記録

マルチン・ゲルリッツエン・フリース https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9

1643年に東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンの命を受け、中国の北方にあると信じられていた「カタイヤ王国」、および、日本の東方沖にあるとされた金銀島捜索のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム号に乗船


以前にも引用しているが、フリースは厚岸の老アイヌに銀の採掘場所(と称される場所)に案内されている。 
http://d.hatena.ne.jp/arch74324/20160501

フリースらの来航の目的のひとつは、北海道周辺における銀産地の調査であった。かれらは立ち寄った厚岸でも地元のアイヌから情報を収集していたが、ある老人が着物を一、二枚くれれば(銀の)鉱山を教えてもよいというのでこれを与え、ボートに同乗させて鉱山があるという場所へ向かった。
「アッキス(厚岸)の険阻な南西を回って南へ向かっていった。……ボートは入江の中のモヨモシェルという小さな島の近くに行ったが、そこでその老住民は、勢いよく流れている清水の小さい流れの近くをさぐるように、彼ら(船員)に身振りで示したが、そこを掘っても浜辺と同じ砂以外は何もみつからなかった」。

フリースは老アイヌに騙されたのか?それとも言葉の問題で齟齬があったのか?いずれにしても厚岸で銀鉱山を発見するに至らなかったのだ。

ところが、そもそも厚岸周辺のアイヌは厚岸周辺で金銀が得られないことを知っていた?
http://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/1-2.html

フリースらは「コンツヲリ(昆布森)、アッケスイ(厚岸)、の土人我船中の人に語って日く。此両村(コンツヲリ、アッケスイ)の人々の他総州土人とは、自ら仇敵の如くにて共に交わることなし」と書いている。これはアッケシのアイヌから聞いたこととして、書いたものだ。2つの勢力圏があり、クスリはアッケシ、コンブモリのアイヌとグループを組みシラヌカと鋭く対立していた。オランダ人は金や銀を求めているのはいうまでもない。アッケシの長老はそれを知りつつ、次のようにも答える。「トカチは砂金もでるし、シラヌカでは銀が出る。アッケシはクッチャロとは仲が良いが、トカプチ、シラヌカとは非常に仲が悪いから、そこへは案内できない」。つまり、金銀があるとは教えるけれどもオランダ人の案内を拒否するのである。

フリースもこれを聞いた時点で探索すべき場所が厚岸周辺でないことは分かったはず。
フリースは金銀島捜索に来たにもかかわらず、十勝(歴舟川付近)や白糠に直接調査には行かなかったのだろうか? このあたりはフリースに関する本を読んでみないと分からないかなあ?

他にも白糠での銀産出も地質的に怪しい話ではあるし、これらの厚岸のアイヌの話の内容は何かミスリードを誘うものであったのかもしれない。