大野土佐日記による建久二年(1191)の知内での産金記録はあるものの、それを除けば北海道で古い産金の記録は松前周辺のこのあたり・・・(知内も松前に近いけどな~)
豊臣秀吉が天下を治めた天正一三年(1585年)頃には、全国のキリシタン宗徒は70万人に達していたと言われています。慶長一八年(1613年)キリシタン宗教の禁教令が発せられ、翌年から京都を中心に宗徒の迫害が行われます。棄教に応じない者は津軽へ流刑され、そのうち津軽藩でもキリシタン弾圧が厳しくなりました。東北地方の大飢饉のため元和三年(1617年)には、3~5万人の砂金掘りが蝦夷地へ渡ったと言われていますが、ほとんどの宗徒が砂金掘りの労働者となって蝦夷地の金山に潜み住むことになりました。
「松前は日本ではない」と北辺の地の特殊性を自認していた七世藩主公広(きんひろ)も、幕府の命により寛永一六年(1639年)、ついに金山のキリシタン宗徒を大量処刑しました。大沢金山では50人、石崎では6人、千軒金山では50人をこの年に処刑しました。
現在では、千軒金山番所跡と思われるところに慰霊碑があり、殉教者へのせめてもの祈りとなっています。
そんな場所で柴金遺構を見つけたのは・・・
4年前か。 今回はその時見つけた遺構の広がりの確認と、遺構の下を流れる川で砂金産出を確認すること。
段丘崖上に水路の断面が見えている。
水路壁の石垣
遺構の広がりは前回見つけた左岸の河岸段丘上の下流側にも広がりが確認できたのと、右岸の更に低位の段丘上にも水路跡が確認できた。右岸側の遺構は不明瞭な部分が多いし林道開削で潰れている部分もあるとは思うが・・・
川を歩いていたら謎の洞窟を発見。
昔の砂金掘り達も使ったかも?
しかし、この場所全く砂金が採れなかった。柴金遺構の脇で全く砂金が確認できないとは・・・
下流では・・・
ちゃんと砂金が確認できた。以前も採ったしね。
さて、次回に向けてもう一河川・・・は時間がなかったので車で場所の確認しただけ。盤はあったのでその辺りを掘れば出るかな?
松前の郷土資料館は・・・
前回と変わらず。北海道最古級の砂金産地なのだからもう少し力を入れても良いかと思うんだけど。