金森氏の飛騨侵攻ルートと金山

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秀吉の命を受けて飛騨に侵攻した金森氏、その侵攻ルートが「金山の所在地を辿るように」(つまりは将来自分の統治する領域の金山調査である)という言説を何ヶ所かで読んだことがあった。確かに多くの金山(と、その傍)を通っているようではあるけど「何を根拠に?」という思いもあったので紹介することもなかったが、『飛騨編年史要』を読んでいたら天正13年(1585)9月3日の項に

按に此時長近が給地は美濃武儀郡金山村坂之東村(七宗山を含む)、郡上郡馬瀬郷村々(大原楢谷を含む)なり、其後馬瀬郷は飛騨國へ編入せらる。

 とある。この地域がまさに金森可重の侵攻ルートであるし(ちなみに長近は森茂や天生金山付近を通るルートを侵攻している)、以前からいくつかの文献に大原、楢谷(両地域を跨いで松谷金山があった)が美濃の扱いになっていることがあって不思議に思っていたが、金森移封までは美濃だったのね。納得。

で、金森氏が知行地に望んだのかまでは不明だが、移封に際して旧美濃地域にあった松谷金山を手に入れたのは確かだ。

もう一点関係しそうなのは、金森の侵攻に伴い松谷金山に関係のある(あった?)大原長林寺の3世誓法は美濃(洞戸)に隠遁するが、天正年間中に金森長近に呼び戻される形で寺に帰っている(『清見村誌 資料編下巻』)。これを単に温情として呼び戻したと考えるのか、はたまた地元の金山に精通する者として呼び戻したのかは不明ではあるけれど確かに上記言説を補強するような話ではある。

 

まあ、なんでもかんでも金山に結びつけるのもどうかとは思うけども・・・