飛騨→美濃→飛騨

garimpo.hatenablog.com

以前に

天正13年(1585)9月3日の項に

按に此時長近が給地は美濃武儀郡金山村坂之東村(七宗山を含む)、郡上郡馬瀬郷村々(大原楢谷を含む)なり、其後馬瀬郷は飛騨國へ編入せらる。

 とある。この地域がまさに金森可重の侵攻ルートであるし(ちなみに長近は森茂や天生金山付近を通るルートを侵攻している)、以前からいくつかの文献に大原、楢谷(両地域を跨いで松谷金山があった)が美濃の扱いになっていることがあって不思議に思っていたが、金森移封までは美濃だったのね。

と書いたものの、『斐太後風土記』などを読むと、

応仁の乱の時期に美濃の勢力(誰とは書いていない)が馬瀬郷を飛騨→美濃に編入し、大永年間(1521-1528)に三木氏が馬瀬郷を支配した際に美濃→飛騨としたのだそうで。

この辺りは、馬瀬郷の浄土真宗の本尊裏書を調べてゆくと美濃国飛騨国に変わった時期が絞れるかもしれない。

 

同時に、この時期の松谷金山は、小原長者の伝説から六厩・岡田家の了宗が稼業していた可能性が高い。 古文書は残されていなさそうではあるが、三木氏と松谷金山の関係や了宗とのつながりが見出せると面白いのだけど。 もっとも、金山周辺の有力者(武士)は鷲見氏、小池氏、二村氏あたりなので、三木氏の関わりは間接的なものかもしれない。