飛騨から奈良井へ

飛騨の中世金山史は不明な部分が多いが、松谷金山周辺地域の浄土真宗寺院史がそれらの解明の鍵になる気がするのだが・・・

で、見つけたのが元 小原地区(小原長者の伝説がある土地だ)にあった寺院・専念寺

錦紅山 専念寺

https://dac.gijodai.ac.jp/vm/map/takayama/page/0300212030001754.html

所在地 高山市鉄砲町
*開基 文亀四年(1504)、明堅。
*明堅が実如上人に帰依して、法号および本尊絵像を授けられ、馬瀬郷小原の里に道場を開いたという、その後、四世了恩の時、故あって今の地に移った。

ここまでは高山市史にも載っていたように思う。逆にこれだけしかわからないのか?とも思ったが・・・

改めて検索してみると、同じ専念寺だが

帰元山 専念寺

帰元山 専念寺 | 共に歩まん

 飛騨国白川の照蓮寺を開基した嘉念坊善俊の末裔の明堅が、文亀四(一五〇四)年に本願寺門主(現在は「御門首」)の実如上人の命により、美濃国郡上里馬瀬郷小原の地に庵を建立し、その後天文年間(一五三二~一五四〇年頃)木曽氏の招きと馬場氏の手助けもあって、奈良井に専念寺を建立しました。

 当初は、飛騨の照蓮寺門下にある専念寺から住職が時々往来している形でした。四代了恩は常に飛騨と奈良井を往来され、沿道の人々に念仏の教えを語られ、真宗に帰依し、門徒となった方々も多かったようです。その頃、飛騨国で戦があり、戦乱を避け、了恩を頼って多数の人々が飛騨より奈良井に移り住みました。

うーん、どう解釈したら整合性がとれるだろう? 小原を去った原因は金の枯渇なのか?それとも金森氏の侵攻によるものなのか? はたまた飢饉の影響? このあたりの寺院はこれらの原因で住職が寺を去る例が見受けられる(金山衰退は想像だけども)から、このお寺も?

もう少し詳しく判ると中世飛騨の金山を語る際の何らかの傍証に使えるような気がするんだけどな~