たたかう!お坊さま

一向一揆の研究』(井上鋭夫)に興味深いはなしが載っていると教えてもらったので読んでみると・・・

飛騨のお坊さん(真宗)が内ヶ島氏の軍勢と共に越中の多胡城で戦っているというのだ。これか。

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大永元年(1521年)3月には越中国氷見を中心に一向一揆が蜂起し、同年9月には飛騨国帰雲城の豪族内ヶ島氏が一揆方に味方して越中国守護代守山城主の神保慶明と同じく越中国守護代の蓮沼城主遊佐慶親を徐々に圧迫しました。これに対して能登国守護畠山義総と越後国守護代長尾為景が援軍を派遣して、大名勢力と一向一揆勢力が正面衝突する事態に発展しました。 大永2年(1522年)年、勝興寺勢と加賀国専光寺勢が内ケ島家当主雅氏の弟氏教とともに越中国多胡城(富山県氷見市)を攻めて畠山勢と戦っています。
この際には両軍とも甚大なる被害を出し内ヶ島氏教が戦死するほどでしたがようやく停戦、和睦しています。

 ふーん、『一向一揆の研究』と年代の解釈にずれがあるようだけど、それはとりあえず置いておくとして、本願寺が内ヶ島氏に戦の指示を出し、照蓮寺などには宗体であるので戦ってはならない(=坊主は宗教的役割を果たせ、戦うならボランティアで(???))と指示を出したらしい。うーん、本願寺の影響力ってそこまで強かったのか。

そして、正連寺の教信がそうであったように坊主・元坊主が戦に出るというのは割と普通だったんだなあ。