『荘川村史 続巻』「岡田家の風土記」(松井嶋子)によれば、六厩の岡田家の祖先は南部三郎光行の子孫で南部屋荘兵衛といい、1250年頃に加賀から飛騨の川上郷に入り、金山師であったという。
それから数十年後に六厩に屋敷を建て、寛正年間(1460-1466)に嘉念坊善俊の教化*1によって天台宗から浄土真宗に改宗する。
・・・あれ?元の文章の書き方が曖昧とはいえ、時代があっていない。1400年代の中頃に飛騨の天台宗の衰退や浄土真宗勢力の伸張は確からしいので、書かれている南部屋荘兵衛は1400年代の人物だろう。
さて、“南部”といえば山梨県の南部町や身延町あたりに縁が深く産金地にも関係が深い、東北の南部氏は有名だが、加賀の南部氏とは???
出典が不明だが・・・
南部宗継の弟の次郎左衛門尉宗冶は「観応の擾乱」の際に北陸に向い、今の富山県の砺波市に逃れて八伏山城を築いたことが地元に伝わる
観応の擾乱は1350年11月26日~1352年3月12日、礪波市は西隣が加賀だから、もしかしたらこの時に南部屋の祖先も南部宗冶に従って北陸に入ってきた人物なのかもしれない。