別府鉱山(金山)

「日本金山誌 第1編九州」の27(p.44)別府鉱山の項に出てくるのがココ
http://www.beppu-showaen.jp/beppu100.html

黄金の大地、夢づくりにかけた木村久太郎
1866年(慶応2年)鳥取県境港市生まれ。
彼は台湾の基隆(キールン)の金採掘で一財を成し、東京で鉱業会社を設立し「金山王」と呼ばれた。明治36年、別府にやって来た木村は「温泉脈のあるところには良質の金鉱脈がある」とねらい、べっぷ昭和園のある乙原地区に30万坪の土地を買い付け、調査し試掘をはじめた。ねらい通り見事に金鉱脈を掘り当て『別府金山』として軌道に乗せた。
ところが大正5年、金鉱を掘り進むにつれ温泉が湧き出してしまう。予想外の温泉の湧出量と高熱の水蒸気に悩まされ、ついには採掘を中断せざるを得ない状況になってしまった。(これがべっぷ昭和園「金の湯物語」の由来である)
しかし木村はあきらめきれなかった。この地は金含有率が高く、さらに質の高い金鉱石が多いことも知っていたからである。大正12年、この地に採鉱技師・山崎権市を派遣する。期待に応えた山崎は巧みに温泉源を避け試掘を行い、「わんかけの金」と呼ばれる最良質の金鉱脈を掘り当てた。だが復活の兆しが見えたちょうどその時、天災に巻き込まれてしまう。
大正12年、関東大震災である。東京に本社を置く木村の鉱業会社も莫大な被害を受け、その影響により経営資金が枯渇してしまった。同じ頃、「別府金山」のある地域住民からは温泉脈に悪影響が出始めたと報告を受け、採鉱中止を申し込まれる。
志半ば、操業を断念することとなった。

別府といえば温泉型金鉱床もあったはずだし・・・温泉入りに行きたいなあ〜

基隆*1の名前が出てきたので木村久太郎に関してもう少し検索してみる・・・
http://www.nnn.co.jp/tokusyu/seibujinbutu/081003.html

木村久太郎(きむらきゅうたろう) 1866〜1936
熱血漢の鉱業家
 木村久太郎は一八六六(慶応二)年、境港市に生まれた。父は郷土愛に燃え、家産を傾けて境港に防波堤を建設したが、一夜の暴風雨で破壊された。父の血を受け継いだ彼も熱血漢で、大阪で土木作業員からたたき上げ、二十四歳で下請師になり京都疎水工事に従事する。
 九六(明治二十九)年、台湾に渡り鉄道工事を請け負ったが、九九(同三十二)年に金鉱業へと転じた。買収した牡丹金山は極めて小規模で、資金繰りにも困難をきたした時、偶然、含金量の多い鉱脈を発見、牡丹鉱は台湾三大金山の一つとなった。さらに後藤新平の知遇を得て、内地、朝鮮の金銀銅山を買収、事業は拡大した。
 大正期に入り、産出の衰えた金山を手放し、一九一七(大正六)年北海道の鉱脈を買収、太平洋炭鉱株式会社を創設して社長となる。その間、境港修築工事で境町の負担が二十五万円であることを知り、六万円を寄付する。以後、金鉱、炭鉱の開発に席の暖まる閑(ひま)もなく働き、いかにも一代の事業家にふさわしい生涯であった。三六(昭和十一)年没、七十歳。

牡丹金山は九份金鉱の南部、この地域の金山を一つとしてみると南西部になる。鉱脈は九份の金鉱床と同じ種類のようなので大粒の金が産出したのだと思う。

*1:金瓜石、九份近くの都市名・・この場合は金山のある基隆山を指す