広報 常陸大宮 6月 141号

広報 常陸大宮 6月 141号
http://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1466757803_doc_13_0.pdf

【久隆金山の歴史】
今回は、そのうち久隆金山について紹介しましょう。久隆は、JR水郡線下小川駅の少し北側から西に入った山間の地域です。久慈川の支流久隆川の上流である久隆沢を中心に、金を掘り出した坑口が存在し、その数は地元の方によれば20か所近くに上るということです。
峠を越えた北隣には栃原金山(大子町)があり、その北東には塩沢金山があります。
久隆金山の歴史は、詳しくはわかりませんが、江戸時代初期の鉱山技術者・永田勘衛門が水戸藩に書き上げた『御領内御金山一巻』(1692年)には、塩沢金山の項に次のように記載されています。
「此金山(塩沢金山)近所ニ仏沢金山、九里宇金山、手小屋金山(栃原金山)、此内ニ金つる多御座候。金子弐百両程御座候ハゞ取立申度候。尤新金山ニ可被成場所も数多御座候」
「九里宇金山」と書かれているのが久隆金山のことです。
「この金山の近所には仏沢金山、九里宇金山、手小屋金山があり、この中には金鉱脈が多くございます。金子200両ほどございますれば、操業したいと存じます。新たな金山になりうる場所も多くございます」
といった内容になります。久隆金山は、栃原金山などと同様、有望な金山と見られていたようです。
ただ、当時は、金山と認識されてはいるものの、採掘はされていないようです。おそらくは戦国時代末期、佐竹氏の積極的な産金政策を背景に開発された金山の一つで、江戸時代に入ってからは廃れていたのではないでしょうか。
その後、小規模な開発は断続的に行われたかもしれませんが、本格的に再開発されるのは昭和の時期になります。
【遺構と遺物】
写真1は現在でも開口している坑道の一つで,もっとも状態の良いものです。人ひとりがかがんでやっと歩けるくらいの坑道で、金の鉱脈を追ってタガネと金槌を使って掘り進んだものと思われます。
岩を掘り進むのも、江戸時代まではすべて人力による作業ですので、大変な労働であったと思われます。
写真2は、久隆沢のあるお宅に残されている鉱山臼です。これは下臼ですが、上臼も残されています。金山から掘り出した鉱石はすりつぶして金を選り分ける必要があります。
そのために臼が必要だったので、多くの場合江戸時代までの金山の近くには、鉱山臼が見られるのです。久隆に残されたこうした鉱山臼は、今となっては久隆金山の歴史を語る貴重な資料であり文化財です。大切に守っていきたいものです。
【参考文献】
山方町誌編さん委員会『山方町誌 上・下巻』山方町
文化財保存研究会1977・1982年、萩野谷悟「久隆金山
ほか」『日本の金銀山遺跡』高志書院2013年