米里の金山

昨日書いた米里には他にも・・・
http://myweek.seesaa.net/article/118710568.html

慶長11年に伊達藩となり南部藩との藩境として重要な場所であると共に、内陸と沿岸を結ぶ交通の要所であり宿場町として栄えました。
 また、金や銅を産出する鉱山がかなりありました。大野、小屋沢、古歌葉(こがよう)金山は平泉時代に発見採掘された物で近世まで採掘していました。当時の鉱山は公政不入の地とされ、一種の治外法権地域であったとされます。そのため多くの切支丹が流れ込み、鉱山で働いていました。伊達政宗は切支丹を容認していたしその家来である後藤寿庵は水沢で布教活動行っていました。そのため岩手県南には切支丹が多くいたと思われます。宣教師達も鉱山を巡って布教活動を行ったようです。

http://kankyo47.yu-yake.com/index.html/news3.html

この地は地質学的にもおもしろい所である。金や銅などを産出する鉱山がかつてはあった。特に金山は多く、大野・小屋沢・古歌葉(こがよう)の金山は平泉の藤原時代に発見採掘されたもので近世まで産出していた。特に古歌葉金山は藤原泰衡の時代に奉行所が置かれるほどだったという。古歌葉金山は古歌葉集落の入口近くにあり、それを知らせる標柱が立っている。古歌葉集落は種山高原の直下の小さな盆地にあり、約十数戸がひっそりと軒を並べている。
 江戸時代鉱山は公政不入の地とされ、一種の治外法権地域であった。そのため多くの切支丹が流れ込み鉱山で働いていた。伊達政宗は当初切支丹を容認していたし、その家来である後藤寿庵は水沢で布教活動を行っていたらしい。一関や前沢など岩手県南に切支丹は多かった。その後禁止令が出ると、信者は隠れ場所として鉱山を選んだ。また、宣教師達も鉱山を巡って布教活動を行ったようである。

南部北上山地には金山が多いのは知っているんだけど、比較的よく行くのは山地の東面が多かったな。西面だと砂白金を探しに田瀬湖周辺とかも行ったけど、あまり金山・砂金をさがしには行っていない。
たまにはこのあたりをゆっくり周りたいなあ。