飛騨から見るか、越中から見るか

『斐太記』に掲載されていた内ヶ島氏(と照蓮寺)に関する論文を読み終えた。一応タイトルを挙げておくかな。

 

・平成20年度 「信州守護小笠原氏とその配下の内ヶ嶋氏、平瀬氏、嘉念坊明誓と市村氏は何時から如何にして飛騨・越中に進出したか」

・平成21年度 「寛正二年(一四六一)に始まる内ヶ嶋為氏等の飛騨白川郷越中への進出と寛正の大飢饉」

・平成22年度秋季 「寛正二年(一四六一)に始まる内ヶ嶋為氏等の飛騨白川郷越中への進撃ルートとその期間」

平成24年度春季 「高山別院照蓮寺の前身正蓮寺開基は真宗高田派三河和田門徒か」

平成27年度秋季 「内島氏はその誰が何時から如何にして武蔵国内ヶ島(埼玉県深谷市)から信濃国松代(長野県長野市)に移付されたのか」

平成28年度春季 「武蔵武士内島氏は鎌倉幕府有力御家人であったか」

平成28年度秋季 「武蔵武士内島忠俊は承久の乱(一二二一年)における勲功を賞され恩賞地として信濃国地頭職を宛て行われたか」

 

全て著者は坂部和夫で内ヶ島氏の飛騨入りの経緯は応永飛騨の乱(1411)を契機に飛騨、その後白川郷五箇山越中と領土を拡げてゆく、五箇山の資料を基にした史観に沿った構成だ。 飛騨の内ヶ島関連の資料は基本的に「足利義政の命令で白川郷に入り」というものだから、この違いは興味深い。

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ただ、五箇山の史料はこれ以前の史料を辿れない? 五箇山の古文書とかに元の記述があるのかな?

 

追記:内ヶ島は標記の振れがあるなあ・・・内ヶ島・内島・内ヶ嶋・・・内嶋もあるのかな?