修正しながら

「中世飛騨西部における産金から見た勢力関係?」をちょこちょこと修正を加えながら考え中~

 

f:id:garimpo:20200425221546j:plain

 

・嘉念坊を除く勢力の時代決定は、概ね文献で埋められる場所。嘉念坊に関しては信濃小笠原勢力の嘉念坊と所謂正連寺開祖とされる嘉念坊善俊の関係をどう考えるか?

・嘉念坊善俊は、鎌倉時代の人物ではなく1400年代末に亡くなった人物だとすると、正蓮寺とは何か?ということを考える必要がある。善俊が1400年代に開いた寺かもしれない。そこに信濃から侵入してきた嘉念坊明誓が跡を継いだ(というか、跡を継いで明誓を名乗った)のかもしれない。8世明誓までの記録が無いというのはそのあたりに原因があるのではないか? 明誓の子 教信が9世を明教に譲り、還俗して三島将監を名乗ったのは先代が武士であり三島姓だったからではないのか?

(2020.4.26追記:『飛騨中世史の研究』(岡村守彦)によれば白川郷に有力な地元勢力の三島氏が居たのではないか・・・という。)

 ・そもそも嘉念坊明誓の飛騨侵入は五箇山関連の資料でしか確認していないが、これはどこまで信用してよいのか? 越中には他にも嘉念坊侵入に関する信用できる史料が存在するのか?

・本当に難しいところは嘉念坊―正蓮寺―内ヶ島―照蓮寺の関係。ここは歴史の専門家ならともかく私では推測で埋めるしかないところ。正蓮寺9世明教の子 明心が照蓮寺として再興したことになっているが、ここには本当に連続性があるのか?

・照蓮寺と内ヶ島氏は共に本願寺を支援(金と兵力)しているようだが、金(かね)に関して銭で寄進しているのか黄金で寄進しているかがわかると当時の産金地の支配の構図を読み取ることができるかもしれない。少なくとも照蓮寺には(岡田家の伝承から)檀家で金掘りである岩瀬(矢箆原)家、若山家などから黄金の寄進があるように思われるし、照蓮寺から本願寺へは1580年に黄金の寄進例がある。もう少し照蓮寺が黄金を使用した例があると良いのだが・・・