信州から進入した小笠原氏配下のはなし

ネット上ではなかなか見つけることができなかったが、ようやく見つけた信濃小笠原氏配下の内ヶ島氏らが白川郷五箇山付近に侵入してきた時のはなし・・・

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 しかし応永三十一(一四二四)年に姉小路氏と木舟城の石黒重行は南朝再興を企て、宗良親王の御子を奉じるが、飛騨からの攻撃に敗れた重行は、御子を奉じて出国する。この時越中入りした飛騨勢の中に小笠原氏がいて、その家臣が平瀬権三郎・嘉念坊明誓・内ヶ島季氏であり、権三郎は同三十四年から上平に留まった。寛正二(一四六一)年に幕命が下り、内ヶ島為氏が奥白川郷を制圧して庄川を下り、同五年に南朝遺臣の籠る保木脇の帰雲城を占拠し、北進して石黒氏の勢力圏であった五箇山に入って川上三ヶ庄まで進む。ここで白川郷鳩谷にいた嘉念坊明教が反旗を翻したため、為氏は五箇山に逃れて反撃し明教を討伐する。明教の子明心の乳母は平瀬権左衛門の妻で赤尾村の角淵刑部左衛門浄徳の娘「そよ」であり、明心と間道伝いで椿原に出て赤尾に逃れ、浄徳は二人を井波に脱出させて本願寺に救いを乞うたため、蓮如の計らいで越前の永泉寺に預けられた。
一方平瀬権左衛門の子で十三歳になる弥七は、文明七(一四七五)年に母と明心の行方を案じて浄徳から話を聞き、九月初旬に親の似せ顔を求めて筑紫国の五百羅漢を参詣しようと思い立つ。途中越前麻生津で吉崎道場の蓮如に入門せよとの夢告があり、本願寺で出家したのが道宗である。道宗の実父は角淵氏との話もあり、角淵館は行徳寺、平瀬館は道善寺になる。赤尾は平瀬氏が東赤尾八か村を、角淵氏と高桑氏で西赤尾を支配していたという。

 先日、南砺市の図書館で探してきた資料の内容が大体こんな感じ。おそらく出所は同じだと思う。