嘉念坊善俊について調べていると市村太郎右衛門の名前が出てくる。1485又は1488年に内ヶ島氏と正蓮寺が争った際、嘉念坊明教の子 亀寿丸、後の嘉念坊明心を越前に逃す役割を果たしているのが市村だ。
五箇山の資料では市村氏は内ヶ島、平瀬などと共に信濃から飛騨そして白川郷に侵入してきた勢力の一人とされている。確かに市村の地名は長野市や小諸市に残っているようでここらが市村氏の発祥の地なのだろう。
ところが荘川村史上巻を読んでいたら市村氏について別の出自が述べられていて・・・
今は関市に移転した光輪寺開基の浄法の項に
延徳元己酉年(一四八九室町中期)九月十一日 善俊光正録によれば、市村兵庫兼治は相州酒匂の人で市村順哲という医者の子であった。兼治の孫市村太郎右衛門兼政は三島にて嘉念坊善俊の弟子となり、随従して白川郷に入り、この地に定住し光輪寺祖となったという。
とある。「○○は三島にて嘉念坊善俊の弟子となり~」という書き方は飛騨の他の人物でも同じような記述を見たことがある。誰だったかな? いずれにしても飛騨の浄土真宗関連の人物フォーマットな気がするので今後は注意しておこう。
五箇山に残る歴史がすべて正しいのかはわからないが、飛騨に残る嘉念坊・照蓮寺(正蓮寺)に関する記録は他の人も言うように歪められている部分があるように思う。このあたりを正せれば産金史を含めた白川郷の歴史がもう少し見えてくると思うのだけど・・・