佐渡と砂金と浄土真宗

10月に新潟を通った際に県立図書館でいくつか気になった資料をコピーしてきた内の一つ『畑野町史 信仰篇』 これには座談会形式で「鉱山と門徒たち」という項がある・・・が正直座談会形式でははっきりとしない部分がある。

なので町史の記述をキーワードにして検索をすると・・・

佐渡広場 : 歴史スポット羽茂:羽茂言葉は名古屋弁 - livedoor Blog(ブログ)

2.佐渡と愛知・岐阜との係わり

(1)史実

①赤泊・莚場(むしろば)の本龍寺の開基は、尾張国(愛知県)葉栗郡河野村の僧 善性 が、寛正6年(1465年)か文政元年(1466年)に門徒とともに佐渡国に渡り、莚場で浄土真宗の道場を開いた。なお、葉栗郡は、安土桃山時代美濃国岐阜県)羽栗郡となった。いずれにしても、両県の県境の木曽川流域の地域から来た。

 なお、蓮如から善性が願いによって寛性5年(1465年)に賜ったとされる名号本尊が本龍寺にあり、裏には墨書・花押がされている。

②目的は布教もあるだろうが、それよりも莚場の山中や西三川の砂金山が目当てとする説が有力。

 1)河野村には「河野十八門徒」の名も残っていて、元々は岡崎市(愛知県)または幡豆(はず)地区で浄土真宗に帰依した人が、河野村で布教活動をしたことによる。

 2)岡崎市を通る矢作川(やはぎがわ)の下流(今日の地域名では、愛知県西尾市幡豆郡)は雲母(うんも)の産地として名高かった。幡豆郡は、佐久島・日間島・篠島などの離島を含む。

佐渡で砂金が採れるという情報は、それ以前からあった。

 1)『今昔物語』に話が載っており、その物語は平安時代末期には編集・完成とされるから西暦1100年代以前。佐渡とあるが、佐渡のどこかは書いてない。

 2)史実に残っているのは、『佐渡風土記』。文禄2年(1593年)の条に「3月15日西三川金山始」とある。そして、その砂金のことは相当の昔からあり「其の根元を知る者なし」と書かれている。砂金ばかりでなく、砂鉄も西三川から採れた。まさかと思われる所に「鍛冶屋」という集落名が現にある。

 

佐渡広場 : 佐渡の風景11:莚場 - livedoor Blog(ブログ)

(2)開基の謎

尾張国(愛知県)から来た寺院

1)本龍寺の寺伝(宝暦3年(1753)「本龍寺縁起」)の要旨

 ・昔、聖徳太子が3日3夜で日本中を巡った時、莚場の浦に着き、一株の松を植え、この地が道場となり仏教が盛んになればこの松も繁茂すると言い残した。

 ・時移り、尾張国葉栗郡河野村の僧 善性は、文正元年(1466)河野の寺を弟子に譲り、名号本尊(「南無阿弥陀仏」と書かれたもの)を奉じて宿世の因縁で佐渡に渡り、莚場の旧跡を捜し求めて浄土真宗の道場を作った。(葉栗郡は、場所は変わらないが、安土・桃山時代美濃国岐阜県)羽栗郡となった)

 ・それが本龍寺で、以来寺は仏道精進怠りなく、太子の松の下に繁栄している。

2)本龍寺に残っているもの

 a.名号本尊:裏書に書かれていることは、寛正5年(1464)大谷本願寺蓮如が、善性の願いによって、尾張国葉栗郡河野道場の本尊として与えたものであることを墨書。花押あり。

 b.親鸞上人の直筆といわれる名号:「帰命尽十万無擬光如来

3)善性は、寛正6年(1465)か文政元年(1466)に門徒と共に佐渡国に渡ってきたとされる。なお、善性は、1470年と1488年に蓮如上人から絵像をもらっていることから、その頃には本国に帰っていた。

(3)わざわざ佐渡まで門徒と共に来た理由

(A説)延暦寺本願寺の対立・抗争の表面化説(叡山僧徒の本願寺襲撃)

 1)背景には、天台宗等から浄土真宗への改宗が進んだこと。蓮如が43歳の時(1458)、本願寺八代法主に就任してからが顕著で、革新的な普及方法である『御文章』が登場。手紙形式の法話集で平仮名交じりの分かりやすい文章になり、携帯に便利なようににされた。

 2)それは、多くの農民に理解された。むしろ重要なことは近江商人門徒とするようになったということ。有名な近江商人の本拠地は滋賀県堅田。一時蓮如が身の危険を察知し身を潜めた所である。近江商人は、職人などの手工業者を巻き込むだけでなく、全国を行商に回ることによって、真宗の教えが急速に全国に広がったことを意味する。延暦寺は近江(商工業者や建築業者等を含む)が基盤であっただけに嫉(ねた)みを買うことになった。

 (信徒の他宗教への抗争・襲撃は、お互いであった。日蓮宗徒が、真宗寺院を襲撃したり、天台宗延暦寺)が日蓮宗真宗の寺院を襲撃したり等々。なお、日蓮自身も浄土宗の信者に襲われ負傷し、弟子一人が殺された話もある)

 3)延暦寺天台宗)の弾圧・攻撃で、安心して生きる場・新しい布教の場を求めた選択肢の一つが、佐渡

(B説)西三川砂金山の開発説

 1)西三川砂金山は、本龍寺がやってきた時期に近い寛正元年(1460)発見説があり、この時に、治水に慣れている木曽川流域からやって来た河野道場門徒が、新しい水路技術で砂金を大いに産出し、それを西三川から川茂・徳和の道を通って莚場から島外へ運び出したのではないかという。

 a.河野の地は、木曽川中流域にあり、尾張から美濃へ行くための「渡し」が多くあった。運送業者や商人に絶好の地域。このような人々は、金堀りなどに関係が深いとされる。

 b.善性は、河野門徒の代表であり専福寺七世で、専福寺文書の中の「元屋敷地内持高之覚」に、32筆5反3畝10歩の内、20筆が字梶屋(かじや)。

  莚場の小石川上流には広い範囲に鍛冶屋ヶ沢という地名が分布。徳和山寺の藤井火倉家は本龍寺の檀家で明治の頃まで鍛冶屋をしており、本龍寺と一緒に来国したと伝えている。また、松ヶ崎の幡豆(はず)一族、勝谷一族も同様に伝えている。なお、莚場の羽豆(はず)一族は、本龍寺との関係は伝えていない。

 (確かに、「鍛冶屋」というバス停もあった)

 c.幡豆郡は、三河国(愛知県)矢作川下流にあって、雲母(うんも)の産地として名高い。なお、西三川砂金山は古くは「三川砂金山」ともいわれ、莚場は「三川」郷に含まれている。

 2)以上から、莚場の山中や西三川砂金山で、木曽川流域流域から来て、鉄や砂金を稼いだ人々や海運業についた人々があった。

そうそう、読みたかったのはこういうことだ。

もう少し佐渡の文献とまだ探していないけど三河地域の浄土真宗関連の資料を探してみたいなあ。