「日本鉱山史の研究」(小葉田 淳)における金銀吹分けに関する記述

「日本鉱山史の研究」(小葉田 淳)p.67-68

 近世初期の金銀鉱山の大盛時代、高品位の良鉱を多く掘った際には、金は金鉱から、銀は銀鉱から製錬するというのに、原鉱において区別していた。
 慶長・元和頃の記録では、たとえば秋田領の金山と銀山で、それぞれ生産したものは金か銀かのいずれかである。
問吹の結果も、そのいずれかである。生野・石見の銀山でも専ら銀の記録があるのみで、銅のことにすら言及していない。佐渡相川でも大部分銀鉱に関するもので少分の金鉱の消息がある。この場合も金銀鉱を区別しており、たとえば慶長年間に春日横相の掘荷の問吹に、金鉱について筋金一〇匁、銀鉱について四三匁が報告されている。当時は、主として後代の記録にいう筋鏈について金を製錬したと思われる。鏈石を台上で鉄鎚をもって砕き石臼で引き、ねこだに流し板で汰り、これを金ものと銀ものに分ける。こうした金銀鉱の選別は、やがておこなわれてきたであろう。
 さらに、この銀ものを製錬した山吹銀を金銀分床によって金銀を吹分けることがはじまった。筋金は焼金のことで佐渡では竿金としたが、金銀分床による分筋金に対して金鉱から小床によって製錬したものを面筋金とよぶようになった。また灰吹銀に対し、金銀分床にかける銀を山吹銀とよんだ。正保二年吹分床二軒という記録があり、十七世紀前期にすでに存在したらしい。

・・・ということで、古くは、おそらく16世紀末頃までは自然金を溶融して、その見かけが銀色であればその鉱石は銀鉱として扱われたのだろう。多くの幼脈型金鉱床から産出された自然金は40wt%前後の銀を含むから、当時はこれらの鉱床の多くは“銀山”として扱われたはず。・・・言い過ぎかなあ?