当時の状況を「殖民状況報文」は、明治三十年の日高の鉱区出願者九十余、ほとんど投機者の占有で採掘者は稀であるとしているが、密採人を含めれば、かなりの採取人が浦河の各河川深く入り込んでいたことがうかがえる。
幌別川流域は江戸時代から砂金が採れたこともあって、その後も採取人が絶えることなく、地元でも西舎の村田政治、田中某、桜井伝七、五十沢金太郎、岡本順助、尾田久助、杵臼の鎌田九造などが取り組んでいた。その一人岡本順助は前出の岡本仁五郎の息子である。それから考えれば、順助は渡辺良作たちから手ほどきを受けたとも考えられる。彼は明治の末期から砂金掘りに手を染めていたらしい。
順助は一ヵ月に一、二度里へ顔を出すだけで、夏場は砂金、冬場は狩猟と一年の大半を山で過した。戦後になってさえ、西舎の人は四合ビンに詰めた米粒大の砂金を見ている。また、姪たちの指には、今でも順助の砂金で作った形見の指輪がはまっている。
「苦労をかけられたけど、なんか憎めなくてねェー」順助の砂金の話をすると、彼女たちは今でもそう苦笑する。
世代的には順助たちの後に属するが、西舎の山口徳治もそうした生活を選びとった一人だった。彼は日高種畜牧場に勤めた戦後こそ砂金採りを道楽にしてしまったが、かつて結核にかかったことがあって、このとき家族への感染を恐れてひとり山で暮らした。
こうしてプロになった徳治は、昭和十一年に春から秋までを砂金、冬を猟という生活を開始した。長男元(はじめ)によれば、以後十年間、その収入は十分家族を養うに足るものであったという。徳治の足跡は沙流川上流から夕張、十勝の歴舟川上流などにも及んでおり、いい寄せ場(砂金の集まる場所)を求めて転々と歩いた砂金掘の姿が目に浮かぶ。
荻伏の西口 清がまとめた記録によれば、野深の鈴木彦治(まさはる)が昭和三年から十二年頃まで、元浦川のナイ沢入口から七、八キロさかのぼった所に砂金鉱区を持っていた。子息、勝の話として、草葺の拝み小屋(柱のない三角小屋)を事務所兼宿所にして、五、六人の人夫を使い砂金の採取を行っていた。ダイズ大からケシ粒大までの砂金をビールビンに入れて保管したが、定期的に神戸から仲買人、あるいは仕込人と思われる人間が来て、これを引き取って行ったという。
以上は近年の人で、浦河に住んでいたセミプロとでも呼べる人たちの話である。あとは趣味と実益をかねて、本業のヒマなときに少し掘ってみるという人びとばかりだった。これらの人も、プロの砂金掘りに人夫として雇われたりして、その方法をみようみまねで覚えたものである。この中の一人、当時上野深に住んでいた川戸徳一郎が、採取を始めた経緯は次のようであった。
彼はニシオマナイ沢に入っていた朝鮮人の砂金掘りに頼まれ、たびたびその仕事を手伝った。そのうちに採取方法を覚え、この人が帰国するときにその道具一式を十八円で買い取った。昭和の初め頃のことである。
一獲千金になるかも知れぬと、まず自宅近くの小川でそれを試してみた。流れを変え、寄せ場と思われる場所の大石や玉石をカナテコやツルハシで起こして捨てる。カナザルで不用な小石を捨て、砂礫を一方に寄せ、土砂をネコ(ムシロ状の厚布)に移して不用なものを水流で流す。最後に残った鉱物質を揺り板(75×40センチ丸底の板)に乗せ、水をかけながらトントンと叩いたり揺すったりして、比重の重い砂金を残す。こう書くといかにも簡単だが、実際の作業は重労働で根気のいる仕事だった。一日やって、うまく行けば五、六グラム、無ければまるっきりである。普通なら間尺に合う仕事ではない。しかし、このときの試し掘りで、徳一郎は幾粒かの砂金に当った。このときの砂金の輝き、あるかなきかの重さに魅入られてしまった。これが彼の砂金採りの始まりだった。
プロの砂金掘りというのは、こちらの川でひと夏あちらで二ヵ月と、当りそうな場所を広く放浪する者たちである。いつでもどこででも他所者だった。人跡もない山奥へ踏み入り、蕗やヤマベを食べ、熊におびえながら仙人のように暮らす。酒を呑んで高歌放吟したとしても、聴いてくれるのは山の木々ばかりである。人恋しさはつのるものの、つい山吹色に魅せられて人里を後にするのは、砂金掘りがやはり一種の狂気を生きているからなのであろう。
「砂金掘り物語」後の日高地方の砂金掘りのお話。「浦河百話」は書籍化されているようなので注文してみよう・・・