百済王の子孫

749年の陸奥の産金に関わった百済王敬福、子孫はどこに行ったのかね?今は姓が“百済王”だなんて人は聞いたことが無いし・・・と、思いながら「帰化人の研究 総説編」(今井啓一)を読んでいたら・・・
p.126

敬福の五世孫、豊俊の時になると、その前庭に古松が三株あったというので三松氏を、さらに後には本多氏を称するようになる。

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-k-mimatsu-kudara.html
検索してみると、色々研究もされているらしい。あたりまえか。

敬福や陸奥の産金と直接は関係しないが、繋がりはもってくるかも・・・
p.11

第七世紀中葉、天智天皇御宇、わが国は半島に失意したので、彼に失ったところを此に獲んとして東国奥羽地方の開拓・経営に力を注ぐことになった。

百済滅亡などで朝鮮半島から入手できなくなった金(など)を探して約一世紀、百済王族の子孫を派遣してついに砂金を発見・・・って深読みすると大和王権の金に対する執念が感じられるなあ・・・