「シベリア日記」

榎本武揚の「シベリア日記」、そういえば名前はあちこち出てくるけど読んだことはなかったな。 夕張で砂金採取を行い、雨宮砂金採取団に影響を与えた榎本武揚のシベリアでの砂金採掘現場見学はどのようなものだったのか?
講談社学術文庫の「シベリア日記」から地質関係の記述部分を抜書きしている方がいて・・・(“砂金”または“沙金”を赤字にした)
http://geocivil.asablo.jp/blog/2008/12/25/

 「掘り主は予がために二十プードの土を掘らしめ、これを洗い、水銀にてアマルガメート(混合<amalgamate>)し、しかしてこれを鉄皿にて水銀を蒸発せしめ〔火に焼きて〕、しかしてこれを目方に掛けて見たるに、砂金二十二ドリありたり。」(八月六日,エカテリンブルグの沙金場にて,p50)

 「道路は昨の如く北海道の新道と大きさまでも全く相似たり。処処にフルハルデケレイ<verhälten Klei【独】>の焼きたる小塊を積みて路側にあり。道普請のためなり。」(八月七日,エカテリンブルグ出発の翌日,p51)

 「沙金を溶かすには、沙金一プードに付き、ボラッキス(硼砂<borax>)一フント、硝石半フントを加へるのみ。
 クルシブル(坩堝<crucible>)は西伯里より出づる極上のグラフヒート<graphite>へ六パルセントのカオリン(白陶土<kaolin>)を交へ、外部にクワルツ<quartz>の粉を少しく塗りて焼きたるものなり。六次用ひ得べし。」(八月二十九日の続き,イルクーツクにて,p97)

 「東西シベリヤ共に皆沙金にして、クワルツ金あらず。クワルツ金はウラルのみ。」(同上,p98)

 「シベリヤ火成地のこと。
 フォン・フンボルト氏はイルクーツクを以て火製の地と云へり。千八百六十年イルクーツク地震ありて寺鐘自ら鳴れり。かつ毎年二、三次位は小地震あり。多分は冬なり。」(八月二十九日の続き 覚書,p101)

 「山はなはだ嶮にして往時はフヒルカニーセ(火山性<volcanic>)たること知るべし。」(八月三十日,イルクーツクからバイカル湖船場リスチウウヰチナヤの間,p104)

 「六時半、ムヒンスカヤと云ふ村駅にて馬を代ふ。この処にて馬がしきりに泥を喰ふを見る。大岡生怪しみてこれを予に告ぐ。予これを附き添ひ役人に問ふに、塩気を含める故なりと答へりと。予ここにおいてその土を水に和し、これを試むるに果たして少しく塩気を味わへり。またラーピス(硝酸銀)水を以てこれを試みるに果たして白色の沈澱を致せり。ラーピスを溶解せし水は、この所の河水なれども沈澱物なし。これを以て知るべし、この地一般河水にも塩気あるにはあらざるを。
 この沢土にかく塩気ある以上は草にもまた然り。故に牛馬のためにもまた宜し。」(八月三十一日,バイカル湖の東岸バイカルヤからクリュチェスカヤの間,p108)

 「初めの沙金場の少々手前に炭酸水涌き出づる処あり。厳然囲みをなし置けり。魯俗呼んで酸水と名づく。味はなはだ佳、鉄気を多く含めり。」(九月九日,ネルチンスクの東プーチンスクにて,p132)

 「しかして帰路の方なる沙金場を一見す。・・・トルフ〔泥炭<Torf【独】:peat>は一サーゼンに過ぐることなく、含金土は我が五尺ばかりにして、磐は同じガラニート〔花崗岩<granite>)なり。」(九月十日,ネルチンスク付近にて,p133)

これを読む限りでは具体的な採掘法や採掘場の描写は少ないのだな〜 それとも省略されている?

調べてみたら近代デジタルライブラリーに「シベリヤ日記」として収録されているのであった。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874789 後で読んでみよう。
これも面白そうだなあ・・・ http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia16-7.html