飛騨の了宗とは? その1

飛騨の文書にちょくちょく(?)名前の出てくる“了宗”。

岡田家の伝承を読んでいるので了宗寺2世の了宗は身近に感じられるが、その他に現れる“了宗”とはどのような人物なのか?

1.岷江記による楢谷寺の記録に現れる了宗(清見村誌 資料篇下)

其後血脈の末孫に三郎兵衛*1といへる人法躰して法名了施(楢谷六世・了宗カ)といひけり。(略)

その子に治右衛門といへる者あり

 ん?了施も了宗寺の3世として名前が出てくるんだよなあ・・・

2.楢谷寺蔵の方便法身尊形裏書(荘川村史 上巻)

白川郷牧野 願主釈了宗

元は牧ヶ野の道場に与えられたものらしいが、村史によれば伝わった理由は明らかでないという。

1、2の了宗が同一人物なら方便法身尊形の移動も説明しやすいが、1.は1603年、2.は1503年の事・物なので同一人物とは考えられない。

・・・ただ、岡田家の伝承を信ずるならばこれら了宗は了宗寺2世の了宗(了施は同3世)らしいのだ。どういうことかといえば、金山師でもあった了宗は六厩周辺の寺(道場)の経済的後援者であって、楢谷や牧ヶ野の寺(道場)建立資金を賄ったようなのだ。各寺(道場)の開基は牧ヶ野ならば唯乗(ゆうじょう)、楢谷ならば善宗とはなっているが持主としては了宗(岡田家)ということだったのだろう。

となれば上記の1,2は・・・

1503年牧ヶ野の道場主岡田家の了宗は願主として本願寺実如より方便法身尊形を受けた。その後了宗の息子→子孫*2了施は1603年無住であった楢谷の道場を継いだ。楢谷の道場が無住となる時(1588年)当時の道場主5世円宗は本尊(方便法身尊形)を持ち去っていた。その為了施の後を継いだ治右衛門(法名正専坊)は、岡田家の持ち物である牧ヶ野道場の方便法身尊形を楢谷の道場に移した・・・と考えられるのではないか?

元の文章に宗教(浄土真宗)用語が多いので正しく解釈できているか自信がないけれど。

 

今後の調査用メモ

楢谷寺了宗(了施・三郎兵衛)元和9年(1623)9月6日寂

正専(治右衛門) 正保3年(1646)10月6日寂(正保3年霜月16日:岷江記)

これらの日付が岡田家の過去帳と照合できればなあ・・・

*1:鷲見次右衛門嫡子三郎兵衛とも

*2:2021.02.24修正:100年経って“息子”はおかしいよなあ・・・