以前にも書いたと思うけど、
伊達先生は、涌谷での砂金発見以前、少量ではあるが西国ですでに見つかっていたと想像している。
— 伊藤孝 (@reishutosoba) August 21, 2024
「日本の各地、特に大和朝廷の勢力下にあった西国を中心として、少しずつではあろうが、砂金が採れていただろうことは想像に難くない。」
伊達(2010)『「理科」で歴史を読みなおす』ちくま新書,p.175
そう、現代の京都の鴨川でも少なからぬ量(多いとは言わないけど)の砂金が採れるのだから、当時も気づかれなかったはずはないのだ。「採れた量が少ないからだ」ということが理由なのであれば、750年の田子の浦の産金だってたいした量ではないのだ。
何か政治的な理由とかでも隠されているのかねえ?