西暦701年

「続日本記」には「西暦701年、凡海麁鎌(おおあまのあらかま)を陸奥に金製錬をさせるために派遣する」・・・という意味の記述がある。
http://www.j-texts.com/jodai/shoku2.html

大宝元年(七〇一)三月戊子(十五)》○戊子。遣追大肆凡海宿禰麁鎌于陸奥冶金。

これを最初に聞いた時は“陸奥”が意味する地域を「現在の宮城県北部〜岩手県南部にかけての産金地帯」と解釈していたのだが、当時の陸奥の国の範囲は現在の福島県−栃木・茨城両県の県境よりも南側に入り込んでいたとの記述を読んだことがあったし、当時の大和政権の版図・・・というよりは、強い影響力を及ぼすことができる地域を概ね古代城柵または国府を結ぶ線の範囲内と見た場合、国としての行動の多くはその範囲内または隣接する地域で行われたと考えるのが自然だろう。
当時の陸奥の国の範囲内にある老脈型の金鉱床を起源とする砂金鉱床*1涌谷三陸地域、しかし当時、この地域には大和政権の影響力は及ぼし難いだろう。もし、陸奥の国の範囲が福島・栃木・茨城3県境にまたがる八溝山周辺の産金地を含むものであれば、凡海麁鎌の派遣先は八溝山周辺地域なのではないか?

・・・と、そんなことをここ一年くらい考えていたので、先週の土曜日、金山博物館で行われた公開講座の講師の先生に尋ねてみたところ「八溝山周辺は陸奥の国の範囲に入っていたことがある」との答え。
凡海麁鎌が金製錬に成功したという記事は無いそうなので、金製錬に失敗したのか砂金自体が発見されなかったのは分からないけど、当時から「八溝山周辺に金がありそうだ」ということは分かっていたのではないかなあ?*2

http://www.town.daigo.ibaraki.jp/index.php?code=166

大子町のあゆみ
 本町は、もと陸奥国白河郡に属し、「倭名類聚鈔」のいわゆる白河郡17郷のうち、八溝山東南の地で、10世紀前半には既に「依上郷」として成立しました。その後、「依上保(よりかみのほ)」と呼ばれました。

*1:一般的に金粒が大きく採集が容易

*2:まあ、いくつか仮定の話が入ってしまっているので色々と抜けがありそうだけど・・・