内ヶ島氏と帰雲城と水沢上の鉱山 その2

http://d.hatena.ne.jp/garimpo/searchdiary?word=%BF%E5%C2%F4%BE%E5 何度か書いている天正地震による山体崩壊で埋もれた帰雲城と水沢上の鉱山の話
金(明宝村史では銀)の仏像を融かそうとするのに、以前読んだ資料では鞴を使うことしか書かれていなかったのだが・・・

http://kaerikumojo-data.webnode.jp/%E6%B0%91%E8%A9%B1%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E6%98%94%E8%A9%B1/

「保木脇の里に大きな城を築いて、越中三郡と飛騨三郡を領土に勢力をふるっていた内ヶ島兵庫頭氏理は、至って勇猛な武将だったといわれています。氏理は、正月15日「熊狩りの会」を催し、一番たくさん熊をとった者には賞金をあたえる、と城下にふれをだしました。その朝、城の広場にあつまった総勢100余名は弓、槍、火縄銃をもち、城主の激励の言葉に喜び勇んで、思い思いの山へ登りはじめました。その中に仲良しの5人の猟師がありました。5人は一組になり、白山下の大白川をカンジキをはき、温泉へたどりついたのは、正午近くでした。そこで湯に入り一休みして、5人で打合せをしました結果、熊の冬ごもりしている洞穴を順番に調べることに決まりました。少し登ると、大きなブナの木の密林があります。1本1本調べていますと、丁度10本目に熊の爪跡があり、ちかくに洞穴がありました。猟師たちはしめたとばかり、奥の方をうかがうと熊が寝ている気配です。早速、木の枝を切り穴口につめて煙いぶしの準備をし、別のところに穴をあけ、そこへ出てきた熊を槍でつきさす用意をしました。しかし、夕方になったので、やむなく明日に延期し、温泉までもどり野宿しました。
 翌朝、再び行ってみますと、熊は逃げだしているではありませんか。幸に天気はよし、足跡を追って行きますと、白山の方へ逃げこんでいきます。そのうち昼時になり、5人は岩陰の雪の少ないところをみつけ、弁当を食べました。ふと、1人が何気なく岩をみますと、大きな岩があり、ピカピカ光るものがあります。金の仏様の立像だったのです。「ヤッ、仏様がいる」と叫びながら両手でもち上げようとしましたが、ビクとも動きません。5人が力をあわせても駄目なのです。「これは、尊い仏様だからわしたちには持てないんだ。あきらめよう・・・・・・」と、再び熊を追っているうちに、1頭仕とめることができました。さて帰ろうとしましたが、白川の方へは帰れそうになく、郡上の折立部落へ下山することにしました。しかし腹がへって歩けません。やっとのこと、1軒の農家にたどりつき、「豆いり」や自分たちがとってきた熊の肉を食べ、どうにか元気を回復しました。
 翌日、城主に熊の皮を献上し、「熊の皮より金の仏像をさしあげたかった」と、昨日の様子を話しますと、城主は大喜びで、早速、家来をつれて仏像をとりに出かけました。足跡をたどって行きますと、岩穴に仏像があり、城主は両手で仏像をとろうとしましたが、動きません。今度は縄をかけ、みんなで掛声あげてひきましたが、やっぱり動きません。とうとう夕方になり、あきらめて下山することにしました。郡上の溝折部落で泊まることになり、城主をはじめ一同が、今日の有様を話しあい残念がっていますと、その家の老婆が恐る恐る、「女の腰巻きをまきつければ、難なく取れるんじゃ」と、教えてくれました。
 翌朝、2人の強い家来が老婆の腰巻を借りて山に登り、金の仏像にまきつけると、簡単に持ちあげることができました。2人は喜んで城主のもとへもち帰りました。丁度溝折の鉱山には、金を溶かす「タタラ」というものがあり、この中へ入れてみましたが、なかなか溶けません。 椿の炭火なれば溶けるとのことで、内ケ戸、椿原部落より椿の木を集め、炭を作り、7日7夜「タタラ」にかけましたが、全然溶けそうにもありません。そればかりか、仏様がただ笑っているように見えますので、城主たちは腹をたてて、川へ投げこんでしまいました。
 その天罰か、天正13年(1585年)11月20日に大地震が起り、保木脇の帰雲城及び郡上の溝折部落が同時に山崩れにあい、1000戸の戸数と数千人の人馬が、一夜にして全滅してしまいました。 その後、溝折の川底に光るものがあるのであげてみますと、金の仏像でしたので、これは白山権現様のたたりだと、もとの白山の岩穴に安置したと伝えられています。 猟師たちが「豆いり」をたべた郡上折立部落には、今でも大豆ができず、また内ケ戸、椿原部落の椿の花も、それ以来南を向いて花が咲かないといい伝えられています。」『白川郷の伝説と民話』6頁

ここでは“タタラ”の語が出てくる。 以前にも書いたが、この水沢上(溝折)には鉄(磁鉄鉱)の鉱山があって
https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php?lat=35.93699&lon=137.06250&z=14&layers=seamless_geo_detailed,seamless_geo_detailed&ol=mine_jp

そこそこに大きいであろう金の仏像を融かすならば、中世の金山でせいぜい数十gの金を融かす小規模な炉よりは、製鉄用のタタラを使用するのは理にかなった話だろう。引用文中には“金を溶かす「タタラ」”とはなっているけどね。 伝説とはいえ妙なところにリアリティを感じさせるなあ。

ところで、内ヶ島氏は、少なくとも1560年頃は水沢上の地域を版図におさめていなかったらしい。
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg:orig
内ヶ島氏の滅亡する天正13年11月29日(1586年1月18日)には、水沢上は内ヶ島領だったのか? それとも伝説なのだからそんなことを考える意味は無いのか・・・?