改めて『えぞ地の砂金』(弥永芳子)を読んでいると・・・
『えぞ地の砂金』p.79-80
前半は『砂金掘り物語』(脇とよ)からの引用部分で、明治20年頃、雨宮砂金採取団が後志利別川で江戸時代後期(?)の採金跡を眺めながらの感想を述べる場面。“作業には、これほどのことをやるからには、おおぜいのアイヌを苦役にあてたものであろう。”と、砂金掘りにアイヌの労働があったと想像されている。
一方、後半は宣教師(イタリア人、ポルトガル人)が見た江戸時代初期の・・・おそらく千軒岳・知内川付近の砂金掘りを見て(この時代はまだ後志利別川の産金地は未発見だったはず)“採取はもっぱら日本人だけだったという。”と結論している。
『えぞ地の砂金』では宣教師の言葉から“アイヌは砂金を掘らなかった”ことになっているが、果たしてそうなのか? 後志利別川と千軒岳周辺の採金時期は200年以上ずれがあったはずだ。その間にアイヌが砂金を掘り始めた可能性はあるのか?
・・・つづく