『えぞ地の砂金』から『金子勘三郎家資料目録』へ

・・・続き。
『えぞ地の砂金』では江戸期を通じて“アイヌは砂金を掘らなかった”としているが、『金子勘三郎家資料目録−佐渡国笹川十八枚村−』(佐渡金銀山遺跡調査検討準備会)を読むと、少なくとも江戸時代後期には後志利別川で“アイヌが砂金を掘っていた”ことがわかる。・・・正確に言うと“アイヌが砂金掘りに関連する作業に従事していた可能性がある”かな?

まず、時代的な話でいうと後志利別川の産金地が発見されたのが安政6(1859)年とされる。昨日書いた、外国人宣教師が千軒岳周辺で砂金掘りの様子を見てから大凡250年経っている。
そして、この頃描かれた後志利別川の産金地の絵図にアイヌを示すらしい“土人”の表記があることから、当時アイヌが砂金掘りに関連する作業に従事していたことが推測されるのだそうだ。
当時、アイヌが産金地でどのような仕事をしていたかは不明であるが、雨宮砂金採取団員が想像したように、水路などをつくる作業に使役されていたのかもしれないし、もっと直接的に砂金採取に関わる作業をしていたのかもしれない。
いずれにせよ江戸時代も後期になれば、このようにして砂金採取現場に近づいたアイヌが自分たちの手で砂金を採る手法を身につけ、交易のために自ら砂金を採取するようになった可能性はあるのではないだろうか? その技術が広くアイヌの間に広がったとまでは思えないが、一部には砂金を掘るアイヌも生まれたのではないか?