ようやく探していた類の記述を見つけた。『新編 白川村史 上巻』と『飛騨と蓮如上人』(高山別院照蓮寺)に書かれていたのは天正11年9月29日の日付で内ヶ島氏理が照蓮寺寺内衆宛に出した書状で・・・
『新編 白川村史 上巻』p.329
照蓮寺の寺の敷地(寺内町)に住む人達に「(中野照蓮寺初代)明心の頃と同様、山や川へ入ってはいけない←『白川村史』 (入っても良い←『飛騨と蓮如上人』)」
・・・という内容。ん?入っていいの?良くないの? 実はこの書状には“明心の頃と同様”と書いてあって明心が中野照蓮寺を建てた時にあった内ヶ島氏との取り決めの内容が書かれていないのだ。更に『新編 白川村史 上巻』と『飛騨と蓮如上人』の書状の読み取りが異なっているような気もする。
内容は正反対だが、それはさておきどちらの著者も山川に入ることの意味を鉱産物の採取に関わることと考えているようで、まさに私が考えている内ヶ島氏と照蓮寺の金山開発・経営の主導権争いについての話なのだ。
ここからは推測が入るが:
西暦1400年代後半、白川郷の金山開発・経営を支配する正蓮寺は、その権益を狙う内ヶ島氏との武力抗争に敗れる。 1500年代初頭、正蓮寺の遺児 明心は本願寺勢力の後ろ盾のもと内ヶ島氏と和解し中野に照蓮寺を開く。その際内ヶ島氏と
1. 白川郷の金山開発・経営は内ヶ島氏が行うので照蓮寺関係者は山川に立ち入ってはならない
2. 白川郷の金山開発・経営は以前のように照蓮寺関係者に任せるので山川への立ち入りは自由である(その代わり上納金を寄越せよ?)
1、2どちらかのような取り決めが成されたのだろう。どちらでもあり得そうな話ではある。
どちらの話でも面白いけど、まずは古文書をちゃんと読んでみることからはじめるかねえ?